2017年8月17日木曜日

『身のほどほど』



クレヨン牧師のミニエッセイ

『身のほどほど』

 身のほどほど   平岩弓枝「自分の限界というものを考える年令になってしまった。折にふれて、身分相応とか、身のほど知らずなどという言葉が頭の中を走り回る。そのくせ。自分を制御出来るかというと、そうでもない。
 
 身のほどを知ったほうがいいのか、それとも知らずに過ごせるのが幸せか、それが問題である」 (新潮社『波』19902より転載)新共同訳聖書で創世記から読んでいます。新しい訳で読むのは初めてですが、なかなか考えさせられています。いまアブラハムにイサクを神様が与えられるという場面です。主が老齢のアブラハム・サラに「あなたは男の子を生む」と言われたときに、ふたりは『笑った』と記されています。そんなバカなことが、身のほど知らずと思ったことでしょう。しかし、実際にはイサクが生まれてくるのです。
 
 身のほどを知ることは、自分の人間としての限界を知ることでもあり、それを越えた神様の業を知ることでもあります。身のほどを知ったうえで、神様の無限に信頼したいですね。

2017年8月16日水曜日

「心強い存在がある」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2017年8月15日火曜日

『小説家を分類すると』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『小説家を分類すると』

 作家・開高健氏が、ある本の序文の中で次のように書いています。
 
 「小説家をある観点から分類してみると、大別して二種類あるようである。一つは自分の書いたものが活字になり単行本になると、それを手にとって繰り返し繰り返し読んで舌打ちしたり恍惚となったりしている人物。もう一種は書いている時は熱中もし、真撃でもあるのに、書き上げるとつきが落ちて、雑誌や単行本になって送られてきたのを押し入れかどこかにそそくさとほりこんで見向きもしない人物である。そして数年後ふと思い出して夜更けに読み返し、オヤ、なかなかいいこと書いているじゃないかと、ニンマリしたりする」最近、聖書日課の原稿依頼を受けました。気安く引き受けたものの、ことの重大さに胃がいたくなりそうです。しかし、これも神様が与えてくださったチャンスと考えて、祈りつつ熱中しているところです。
 
 私自身を開高氏の分類からすると、前者の方じゃないかなと思います。自分が人に神様の話をしたその話で、自分が慰められるような福音を語りたい。

2017年8月14日月曜日

「わかっているから」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2017年8月12日土曜日

きままな休日・大地の恵みポーク・ももハム


中高生キャンプでは8キロのももハムを食べました。
何とも贅沢。熊本にある大地の恵みポークからです。
ドイツを学びポークハムを食べる。楽しい企画でした。