2018年4月24日火曜日

「聞いてわかる文章」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聞いてわかる文章」
 
 西中国地区の聖書日課を、ワープロで作成しています。地区の方々の書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。これだけでも大変な作業をみなさんがしておられるのです。
 
 さて、3月分位を編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。
 
 私はこれらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。
 
 「聞け、イスラエル」と神様は言われます。神様の語られることは文章にしても聞いてわかるものだったのです。

2018年4月23日月曜日

「骨髄まで響く」


鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2018年4月22日日曜日

2018年4月21日土曜日

礼拝は今日です!

本日の礼拝は、中村朝美牧師(宮崎教会)のメッセージです。
 
 

2018年4月20日金曜日

きままな休日・五家荘のごはん

平家の里・五家荘へ行ってきました。
山奥の落人の里。さすがに山にしかない料理でした。
猪汁、ヤマメ刺身、塩焼き、甘露煮。
どれも最高!

2018年4月19日木曜日

「一度わきに出てみる」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「一度わきに出てみる」
 
 島根県・六日市集会からの帰り道、久しぶりに野ウサギに出会いました。薄茶色のわりと小さな野ウサギでした。山の蔭から出てきたと思うと、車の前を一緒に走っています。右か左に寄ってくれれがいいのですが、車のライトに照らされた道をひたすら真っ直ぐに走っているのです。
 
 追い抜きにかかるとその方に寄ってくるし、スピードを落とせば走るのがゆっくりとなる。どうすればいいかなと思っていましたら、やっと左の薮へ消えて行きました。もうそろそろ限界にきて疲れているなとわかる走りでした。ただひたすら真っ直ぐに走ることだけがいいのか。それとも一度わきにでて、また走る道を見定めてみるのがいいのか。いろいろと考えさせられました。
 
 「婦人会の活動を停止する」という波紋が広がっています。決して婦人会を止めるのでありません。今の教会の機構を考えてみようと思っています。建築の返済のためだけにこの教会があるのではないことは、神様が教えてくださっていることです。それでは何のためにここに建っているのか。やはり宣教のためです。その宣教のために今の教会の機構があっているかどうか考えてみたいのです。もし婦人会の活動が重荷になっているのなら、一度わきにそれて見直してみる必要もあるのです。

2018年4月18日水曜日

深めていく愛


鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。