2017年11月17日金曜日

いまの鹿児島教会

鹿児島教会が成長していますよ!
ますます聖なる空間になりました。

2017年11月16日木曜日

『感謝する』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『感謝する』

 毎週木曜日は私にとって楽しい日となりました。なぜなら生協の日だからです。この日には前週に頼んでおいた美味しい品物が届くのです。けれど困ったこともしばしばあります。皆さんもあるでしょうか。お味噌が二週続けてきたり、ややもするとスパゲッティイが三キロきたり、お年寄り用オムツがきたりすることが。実は前週に頼むシステムになっているので、何を頼んだかわからなくなってしまうのです。一週間のうちに既にお味噌は頼んだのに、無くなりつつあるとあせってまた頼んでしまう。頼んだことを忘れてまた頼む。
 
 こう考えてみると信仰生活も同じだと思ってしまいます。今日恵みを与えられていても、忘れてまた恵みを与えてと祈る。昨日守られていたことなどすっかり忘れて、今日こそ守ってくださいと神様に不平を述べている。こんなことはよくあります。しかしそれが悪いとはいえません。なぜなら神様の恵みを一々覚えられないのが私たちなのです。にもかかわらず恵みを与えたもう神様。私たちにできることは何かといえば感謝することです。

2017年11月15日水曜日

「み言葉の命を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2017年11月14日火曜日

『風が好き』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『風が好き』

 次女も守られて、少しづつ大きくなり、またよく笑うようにもなりました。先日も散歩に出かけたとき、急にゲラゲラ笑いだしました。どうしたのかと思いながら長女をみると同じようにゲラゲラ笑っていました。親は別におかしくないのになぜか二人だけがとても愉快そうでした。理由はなんと、風が吹いていたからです。どうも『風』が大好きなようです。
 
 それで実験です。次女に息を吹きかけたら笑うか。その結果が面白いのです。フウッ-と息を吹きかけると、一度深く吸い込んで笑うのです。何度やっても同じです。神様が人を造られたのち、鼻から息を吹きかけて生きたものとされたということが聖書に書かれています。(創世記2:7 )風は神様の息であり、聖霊でもあります。子供たちには神様の息がわかるのかもしれません。
 
 神様が吹きかけてくださる聖霊の息を、妨げているのは私たち自身の不信仰かもしれません。風は私たちの周りでいつでも吹いているのです。

2017年11月13日月曜日

「先に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2017年11月11日土曜日

きままな休日・あずまそば

1玉、2玉、3玉同じ値段
でもやっぱ3玉はいけないですね。
そばだからと油断しちゃいけない!