2017年6月23日金曜日

鹿児島教会がかわりました!

鹿児島教会礼拝堂が変わりました。
聖なる空間プロジェクトです。
ぜひ見に来てください。
明日は10:30~礼拝です!
 


2017年6月22日木曜日

自由研究

クレヨン牧師のミニエッセイ

『自由研究』

 夏休みも終わり、新しい学期を子供たちは迎えていることでしょう。宿題を今頃やっている子供もいるかもしれません。私もそういう子供の一人でした。最近では、「夏休みの友」という宿題だけでなく、自由研究というものがあるとか。子供たちも大変に忙しい休みを送っています。
 
  ある子供さんが、夏休みの自由研究について教えてくれました。それは、「骨にはどんな飲み物が悪いか」という研究です。実際には、いわしの骨をそれぞれの飲み物に漬けておくという実験です。その飲み物とは、「水、ウ-ロン茶、お茶、コ-ラ、スポ-ツドリンク、そしてビ-ル。さて、結果はどうなったでしょう。実はこうなりました。骨がすぐに解けた順から、一・スポ-ツドリンク、二・コ-ラ、三・ビ-ルの順だったそうです。水、ウ-ロン茶、お茶は全然解けなかったとか。
 
  何が悪いのかはわかりませんが、う~んと考え込んでしまいました。神様が与えたもうものは、なんでも恵みとして素晴らしいものです。しかし、そこに人間の欲望が入ると害になってしまう。欲を入れずにそのままにおくことは、反対には全てを捨てることかも。 

2017年6月21日水曜日

道のはじめに

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「道の初めに」

箴言 22:6 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。

箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。

日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。

箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校や、教会教育にあたるものは、すべては神様のみ言葉に立って行うということを求められます。そこに若者を導く知恵があるのです。

2017年6月20日火曜日

竹トンボ

クレヨン牧師のミニエッセイ

『竹とんぼ』

 「作る楽しみ」と「最後までやり通すことの喜び」を知ってもらうことを目標に、「子供大工教室」が行なわれました。幼稚園児から中学生まで小刀を持って、大工さんの指導のもと楽しく過ごしました。
 
 最初に竹とんぼを作りました。といっても私は初めてのことです。みんなも同様に初めてですから、真剣です。口も聞かず、もくもくと削っていました。少々のケガはありましたが、みんな二・三個の「自家製竹とんぼ」ができました。その竹とんぼを飛ばしながらの子供たちの顔は、本当にうれしそうで、しかも満足そうな顔でした。うまく飛ばなくても、作りあげた喜びのほうが大切なひとときでした。
 
 神様はこの世界を造られたとき、「よし」(創世記1:10)とされました。そこでは満足と喜びがいっぱいだったのではないでしょうか。最後まで造りあげること、そして、自分でそれに満足することは大切なことです。
 
 神様はいろんなものを造られました。その満足が私たちと共にあるように祈ります。 

2017年6月19日月曜日

何か一つを

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「何かを一つ」

箴言 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。

箴言の20章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。5節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。

あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。

箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決するには、神様を信頼して今日一歩を踏み出すことなのです。

2017年6月17日土曜日

きままな休日・母のオムレツ

これは大好物
母が作ってくれる、ポテトサラダが包んである
オムレツです。かなら美味しいです。