2017年9月23日土曜日

きままな休日・広島でランチ

広島にある
バッケン・モーツアルトのランチ
なかなかボリュームがあって
かなら美味しかったですよ!

2017年9月21日木曜日

『加藤さんの信仰』

クレヨン牧師のミニエッセイ


『加藤さんの信仰』

 「あなたの信仰を語れといわれたら、生れてから死ぬまでの全てを語らねばなるまい」という言葉があります。一人の信仰者が天に召される時、そこには神様が見えてくるものだと思います。
 
 柳井教会の加藤嘉治兄が召天されて一週間がたちました。確かにさみしさもありますが、それ以上に『信仰』とは何かを教えられているようです。加藤さんの告別式を通して、復活の信仰と神様の救いの大きさを示されました。加藤さんの生涯とは何だったのでしょうか。それをはっきり教えられたのは火葬の翌日、お骨を納めにいったときです。火葬場の蓋があけられ、私たちの前に示されたものは、大きな膝の骨と灰になってもなお形を留めている聖書でした。
 
 加藤さんの信仰は『膝の信仰』でした。毎週自転車で教会の礼拝に通われました。そして毎日自転車で法務局に通われました。神様が与えられた職務を確実に果たし、教会の礼拝にて恵みと祝福を受ける。九十歳を越えてなお山を一つこえての道のりでした。信仰の強さと御言葉が確実に残ることを示されました。加藤さんのお墓は直筆で「我が事の終れり。神のみ許で我憩わん」と書かれている。

2017年9月20日水曜日

「宣教は刈り入れ」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「宣教は刈り入れ」

ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。

教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。

イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。

ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。

教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。誰を招き、誰と共に生きていくのか。もういちど宣教について考えてみたいものです。

2017年9月19日火曜日

『おはようの言葉でも』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『おはようの言葉でも』

 NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。
 
 先月から最後の讃美歌に『ちいさなかごに』を歌っています。そのなかに、「『おはよう』とのあいさつも、心込めてかわすなら、その一日おたがいに、喜ばしく過ごすでしょう」とあります。声をかけることは、実はその人に触れることです。たった一言でもいいから、声をかける時に心を込めてみる。それができたらどんなに楽しいだろうと思います。イエス様が復活されたとき、悲しむ婦人たちにむかって言われた言葉は、「おはよう」(マタイ28:9)でした。

2017年9月18日月曜日

「あなたが言っていること」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「あなたが言っていること」

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。