2018年1月19日金曜日

気ままな休日・豚天丼

 

ちょっと疲れがたまったな~
そうだこんな時は食べよう!
がっついりいくぞ~で豚天丼です。

2018年1月18日木曜日

『教会の鐘』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『教会の鐘』
 
 徳山教会の鐘を設置した時のことです。日曜日から順調に鳴り響いていました。毎日聞けるのは、牧師の家庭とそしてこの地域の方々です。私はなんて幸せなんだろうと一人喜びを噛み締めていました。
 
  毎日聞いていますと、だんだん生活のリズムができてくるように思えます。時の確認ができる。正午だからもう鳴るかなとか、もうすぐ六時だなと時間を気にするようになりました。けじめができていいものです。しかもいいことを教えられました。それはミレ-の『晩鐘』です。あの絵は教会の鐘とともにお祈りしている夫婦の絵でした。そう考えたとき、あの鐘が鳴るときは立ち止まって『祈る』ことにしようと決心したのです。
 
   鐘はたった四十秒しか鳴りません。しかし、その短い時間がとても尊い時間に変えられました。鐘の音とともに皆さんの無事を祈っています。安心して働き、与えられた時を有意義に過ごしてください。鐘は日に三回鳴ります。

2018年1月17日水曜日

「座ってみて」

 鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「座ってみて」

ルカ 1428 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。

本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。

幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈りを着せ、祈りを食べさせてやってください」と。あたりまえのことです。

 答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは神様の前に座ることです。神様にすべてまかせてしまうことです。座ってみてはじめてわかる愛があります。





2018年1月16日火曜日

砂浜で赤ちゃんが

クレヨン牧師のミニエッセイ

砂浜で赤ちゃんが

 「虹の子サ-クル」の新年度がスタ-トしました。久し振りに海辺に出ていくと、太陽の輝き、風の心地よさ、砂の暖かさを感じました。
 
  多くの子供たちが砂浜で遊んでいました。長女も外で遊べるのがうれしいらしく、すぐ裸足になり駆け回っていました。そして何を思ったのか突然、砂を掘りはじめたのです。必死になって掘っています。しかし掘れども掘れども砂ばかり。横でみていて私達大人も同じことやっているのだな。人生に何か宝でもあるだろうかと必死で砂を掘っているのかもしれないと考えていました。すると長女がいきなり叫びました。「赤ちゃんがでてきた」。ウソッ~と思って見てみると、砂の湿ったところに松の二葉があるではないですか。きっと松林から種が飛んで芽をだしたのでしょう。
 
 人生の砂場で私たちが見出すのは何でしょうか。それは神様から与えられた命かもしれません。ある牧師が説教の中で、「宗教(信仰)の一番初めは感謝から始まる」と語っておられました。神様から与えられた命を見出すことができたら、私たちの人生は感謝から始められるでしょう。
 

2018年1月15日月曜日

「聞くという奉仕」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「聞くという奉仕」

ルカ 1042 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。

イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。

次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。

イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。