2017年10月12日木曜日

『共に悲しむ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『共に悲しむ』

「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」
 
 指紋押捺拒否裁判を担当された弁護士さんの言葉です。一人の人の考えや生き方を変えようとする場合、闘争的になるのはどうしてでしょうか。強い者が正しいという考えがどこかにあるのでしょうか。
 
 校門に挟まれて亡くなった高校生の出来事に、胸が痛くなりました。また逆にそうせざるを得なかった教師にも胸が痛くなります。ニュ-スをみていたら数日後、校門の前で二人の大学生がビラを配りながら叫んでいました。「教師がそこまでして、校門を閉めなければならないような学校にしたのは、君たち生徒一人一人なんだ」と。私たちはどう考えますか。
 
 「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」私たちは責められても責められても、自分を変えようとはしません。しかしそこに共に胸の痛みを感じ、悲しむことがおこったとき人は変えられていくと思います。
 
  私たちが救われているのは、イエス様が一人一人と共に悲しんでくださるからではないでしょうか。

2017年10月11日水曜日

「骨髄まで響く」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2017年10月10日火曜日

『三球三振』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『三球三振』

 母校の地区予選敗退にて、来年春の甲子園は終りました。残すは鹿児島の代表を応援するのみです。
 
  野球といえば少年のあこがれのスポ-ツです。とくに投手になりたいと思う人が多いのではないでしょうか。投手の出来がその試合の大部分を左右するといってもよいでしょう。その投手も最近ではいろんな球種をもっています。ストレ-ト、シュ-ト、カ-ブ、シンカ-、フォ-ク、パ-ムボ-ル、まだまだあります。私などがなげても直球を投げているつもりが、自然と右へ曲がってしまいます。こんなのはナチュラルシュ-トというのでしょうか。しかし野球をみていて一番面白いのは、直球で勝負というものです。
 イエス様の御言葉もいろんな届き方をします。御言葉の球種はその人の心にあわせて飛んでくるのです。私たちが喜びにあふれているときは、応答というバットでホ-ムランをかっとばします。でも苦しいことがあるときには迷いのバットで見逃し三振となるかもしれません。
 どうせ三振するのであれば、御言葉の直球におもいっきり大振りの三球三振といきたいですね。 

2017年10月9日月曜日

「深めていく愛」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。