2017年12月12日火曜日

『発想の転換』

クレヨン牧師のミニエッセイ

 『発想の転換』

「発想の転換が求められている」と思います。聖書を読むとき常に新しい気持で御言葉に接するには、「発想の転換」が必要です。いままでとらわれている考えを変えることが大切だといえます。『おしゃべり用・心理ゲ-ム』という本を読んでいますと、面白い自分を発見することができます。自分がいかに発想の固定化をしているかわかりました。
 
  さてその中に次のような問がありました。 『象を冷蔵庫に入れる三つの不可欠な条件とは何ですか?』さて何でしょうか。いろいろ考えてみます。だいたい私などに浮かぶ発想は、冷蔵庫を大きくするとか、空気穴をつけるとか、ホカロンを用意するなどです。答えは「一、冷蔵庫のドアを開ける。二、象を入れる。三、ドアを閉める」です。なんだバカらしいと思うあなたは、発想の転換期が近づいていますよ。
 
 イエス様の御言葉も大層なことではなく、ごく自然に心へ届かなくてはなりません。届かなくしているのは私たちなのです。発想の転換をして御言葉を聞きましょう。

2017年12月11日月曜日

「捨てる・拾う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

2017年12月8日金曜日

アメリカからの金の燭台

今年鹿児島教会の礼拝堂に、アメリカの姉妹教会からプレゼントされました。

2017年12月7日木曜日

『恵みの風邪』

クレヨン牧師のミニエッセイ
『恵みの風邪』

年末の忙しさから開放されたと思ったら、風邪をひいて何年振りかで寝込んでしまいました。
 
 ある方から、「二十代の体と三十代の体は違うので無理をしてはいけません」と暖かい言葉を頂いていたのに、年末年始走り回っていたのが原因でしょう。あらためて自分は三十代になったのだと確認しました。三日間布団につきながら二十代だったらもう起きて動けるのにと、三十代の重みを実感したのでした。
 
 さてそう言っても、神様は年末にたくさんの恵みをくださいました。「釜ケ崎越冬セミナ-」は、私にとっていい経験でした。青年たちと一緒に参加したのですが、それぞれに神様からのチャレンジを頂きました。
 
 「何が私に求められているのか」「イエス様の福音とはいったい何か」と、風邪で寝ながら考えていました。牧師が一日中何もしないでそのことだけを考えるチャンスは多くはありません。風邪をひいたのも神様の恵みだったのです。
 
  布団の中での問いに答えていく一年にしていきたいものです。よろしく。

2017年12月6日水曜日

「非難されないように」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「非難されないように」
2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。
出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。
8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。
ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。
パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。