2012年9月30日日曜日

説教・「受け入れられる幸い」


聖霊降臨後第18主日 説教準備 宮崎教会にて     2012.09.30
エレミヤ11:18~20 ヤコブ4:1~10 マルコ9:30~37

「受け入れられる幸い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにありますように。アーメン

《序 受け入れられる》
 NHKの朝のドラマ「梅ちゃん先生」が、昨日で終わりました。見ていて、はらはら、どきどきの連続でした。ああ、そんなお節介を焼かなければいいのに、また失敗するのではないだろうか、果たしてその通りになっていきます。でも不思議なことに、そのお節介がいつの間にか、人々の交わりや和解を生みだします。端で傍観者として黙って見ていられない、そこが梅ちゃん先生の本領が発揮されるところです。こんな人が傍にいてくれたら、どんなに日々の暮らしが豊かにされることでしょう。彼女は気にかかる人を見つけると、自ら関わりを持とうとします。気がつくと他人の世話を焼き一緒に悩み、相手を受け入れています。そして、他人の喜ぶ顔を見て、自分の喜びとしています。

 松子、竹男、梅子の3人兄弟の末っ子である彼女は、優秀な上二人に比べられ、いつも劣等感をもっていました。父建造から「何をやっても中途半端で、駄目な子だ」、といつも言われました。自分の名前が「梅子」であることから、鰻重を注文する時、松竹梅の順に値段が安くなるように、一番軽く見られているのが自分である、と思い込んでいました。父親から期待をかけられていないし、自分は駄目な子なのだと思っていました。しかし、父から「最寒三友」という中国の故事から付けた名前で、冬の寒さに堪える三兄弟の松・竹・梅であれとの願いが込められたものと知ります。そして、医者の父が苦しんでいる子どもを、目の前で応急措置をして助けた姿を見て、一念発起して無理と言われた、医者になる学校に合格します。卒業して念願の地元の町医者になって、地域の人々の健康を守ります。父親は梅子を認めて、その全てを受け入れます。父建造はこんな風に言います、「もう私の助けは必要ない。梅子、一人前になったな。お前はもう大丈夫だ。」このようにして、彼女の他人への一途なお節介は、頑固で舌足らずの父親を変えました。

 私たちは相手から受け入れられ、「一人前になった、もう大丈夫だ」と褒められると、とても嬉しくなります。その反対に「何をやっても駄目な奴だ」とけなされると、悲しくなります。人間関係を上手くつくるのに、相手を受容することは大切なことです。私たちは相手を受け入れて、相手に受け入れられます。「完璧な人間は何処にもいません、それでも構いませんよ、私はあなたを丸ごと好きですよ、あなたを愛していますよ。」そのように言われる方が主イエスです。私たちがどのように受け入れられるのか、今朝のマルコ福音書に聴いてまいりましょう。

《2 最後の者は仕える者》
 ガリラヤへの途上で主イエスは弟子たちに、二度目の受難と復活の予告を語りました。彼らは主の言葉が分からないまま、尋ねることも恐くてできませんでした。それどころか、受難と復活の予告を聞いたすぐ後、12弟子の内で誰が一番偉いかと議論さえしていました。主イエスは彼らに何を議論していたかと尋ねました。彼らは恥ずかしかったのでしょう、尋ねられたことに答えられませんでした。

 カファルナウムの家に着いて、12弟子を呼び寄せて言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」主イエスの言われた逆転の発想が分かりません。主イエスは後に、ご自分が仕える者であると語られます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」《10:45》まさに、主イエスこそは仕える者であり、ご自分の命を私たちにくださるために、すべての人の最後になられた方でした。ご自分の弟子にすべての人の後になり、仕える者になりなさいと求められます。

《3 子どもを受け入れる》
 主イエスは子どもの手を取って、彼らの真中に立たせます。そして、抱きかかえて言われます。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」子どもを受け入れる人を、主イエスは神につなげてくださいます。弱く小さな子どもを受け入れる、それは私イエスを受け入れている、さらに御自分を遣わされた父を受け入れている、と語られます。ですから、子どもを受け入れる人は、神をすでに受け入れているのです。

 当時の子どもは、どのような状況に置かれていたのでしょうか。三人に一人は生まれて直ぐに死に、子どもが6歳頃まで育つと、親はひと安心できました。そんな厳しい子育て環境でしたから、飢餓・戦争・病気・混乱、それらの影響をまともに受けたのが子どもでした。それだからでしょう、当時の社会は、子どもの存在価値をほとんど認めず、弱い立場を大切にされなかったようです。受け入れられない子どもを、主イエスが愛する対象とされ、弟子たちにも受け入れるよう求められます。

 主イエスが子どもをどのようにご覧になっていたか、次の言葉から分かります。「『子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」《10:15~16》世は子どもの存在を受け入れませんが、主イエスは子どもを抱き上げ、自分たちの中に迎え入れます。子どもこそが、神の国に入れる存在であると語ります。主イエスは子どもを抱きかかえて、弱く小さい者への愛を示され、頭に手を置いて祝福されます。それは、小児祝福式をされる主イエスの姿です。

《4 受け入れて、受け入れられる》
 2週間前に帰省した折に、兄の孫に会ってきました。生まれて一月半の女の子で、まるで天使のようでした。抱いてみたかったのですが、残念ながら眠っていました。ふっくらとした顔は、まるでお多福のようでした。それを見て、我家の24歳の息子と21歳の娘、二人の生まれた時を思い出しました。子どもが親に全てを委ね切る姿は、生まれたばかりの赤ちゃんにあります。そして、この子のためなら何でもしてやりたい、親としての自覚と責任が湧いてきました。

 それに比べると仔馬は、生まれて直ぐに立ち上がります。母の胎内で十分に育って生まれるので、既に外敵から逃れる術を身につけています。人間の赤ちゃんは立ち上がるまで1年ほどかかります。生理的に未熟なままで産まれてくるからです。人間の赤ちゃんが母の胎内で十分に成長すると、頭が大きくなりすぎて出産が難しくなるそうです。そんな訳で他の動物と比べると、赤ちゃんは至れり尽くせりの世話を受けます。それは愛が具体的な行為となって、子育てがされるものではないでしょうか。言い換えれば、赤ちゃんを丸ごと受け入れるから、赤ちゃんに仕えるようになれます。それも、心から喜んで仕えることができます。

 しかし最近、児童虐待が注目されています。そして、虐待した親がかつて愛されずに育ったケースが報告されています。私たちは愛されたから、愛することができる、のではないでしょうか?愛されなかったので、どう愛していいか分からない、そんな話も聞きます。もちろん、子どもの頃に愛されなくても、愛することができる方もおられます。愛されるとは当たり前ではなく、相手に主が宿ってくださるから、私たちが愛せるのではないでしょうか。ある児童養護施設のお披露目に訪れたことがあります。そこに止むを得ない事情で親から離れて、共同生活を送る中高生たちがいます。スタッフが自分をどこまで受け入れるか、どこまで赦してくれるか試すそうです。愛情に渇いているゆえに、相手から愛情を確認したいと、これでもかこれでもかと困らせるそうです。訪れた時は新築の施設でしたが、施設長がこの壁にはいずれ拳骨の穴の跡が残されるでしょう、と言われたことを憶えています。そして、試されることが辛いと言われました。幾度となく施設を辞めようかと考えた程だそうです。その方は今も働かれていますから、子どもたちを受け入れ続けておられます。子どもたちが受け入れられて、受け入れる人に変えられるよう祈っています。

《結び 相手を最後まで受け入れる方》
 私たちは受け入れることを、安易に考えることができません。相手を受け入れたなら、自分が傷つくかもしれません、相手から裏切るかもしれません。ですから受け入れるまで、この人はどんな人なのだろうか、信頼できる人なのだろうか見極めようとします。具体的な例でいうと、借家の保証人になってくれますか、婚姻届の証人になってくれますか、と求められます。実際に先日ある人から、婚姻届の証人になって欲しいと依頼されました。そのカップルは信徒でもなく、礼拝に来たこともなく、何度か厄介をかけられた人で、教会の牧師なら証人になってくれる、と期待されたのでしょう。他に証人を頼める人がいなかったのでしょう。でもこのカップルのことをほとんど知らないという理由をつけて、一寸迷ってから断ってしまいました。二人に何かトラブルが起きたら、和解の労をとることになるかもしれません。いざとなった時に仲裁する、その覚悟ができませんでした。

 主イエスはそれと反対に、何の前提条件もつけずに、最後まで受け入れる方です。それは主イエスが私たちの罪の赦しのため、十字架にかかられたことから分かります。主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」、と言われました。この方はひとりひとり値踏みをされず、裏切られるかもしれない人を、命がけで受け入れてくれました。人間は自分を窮地に陥れることから、逃れたいと言う自己防衛本能が働きます。その一方で、私たちは「主よ、憐れんでください」、と常に祈り願っている自分がいます。見返りなしで相手を受け入れる、主イエスでなければ、とてもできないことです。私たちは最後まで受け入れられ、私たちに仕えてくださるお方がいてくださる、その幸いに心から感謝をいたします。そのような憐れみ深い主イエスに、私たちが信じて御後に従わずに、どうしていられるでしょうか。受け入れてくださる主イエスに頼り、今週も一緒に生かされてまいりましょう。
 

《祈り》慈しみ深い主よ、あなたは私たちを、条件無しで受け入れてくださいます。そして、弱く小さな子どもを受け入れる者を、父なる神につなげてくださいます。また、私たちが相手を受け入れ、相手から受け入れられる者とされるよう導いてください。主イエスは私たちの身代金として、ご自分の命を献げるために、この世に来られました。父なる神が大切な独り子を私たちに賜るほどに、私たちが受け入れられました。どうぞ、私たちがあなたの御後について行けますよう、聖霊を送ってくださり、確かな信仰を与えてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン