2015年9月8日火曜日


「上野由恵フルート・コンサート」                              小山 茂 

613日午後鹿児島教会で、フルートのコンサートが開かれました。日本福音ルーテル社団主催の企画で、初めて我教会に来ていただきました。伴奏用のピアノが必要と聞いていたので、昨年春にピアノの寄贈を受け備えていました。今年はギターとのデュエットになり、この組み合わせの方が私は好きです。当日南九州は梅雨の真っただ中、生憎の天気でしたが87名の方が聴きに来てくれました。私は30年前に西新宿でフルートを習っていましたが、そこで上野由恵さんが講師をされていると聞き、不思議なつながりを感じました。 

演奏曲目はバラエティに富んでおり、讃美歌・フルート向きの曲・心躍るラテンの曲など演奏されました。新井伴典さんのギターは、時に打楽器のように共鳴板を叩いてリズムを刻み、二人の息がぴたりと合って楽しい演奏でした。90分の演奏を一気にされる、プロのエネルギーを見せてもらいました。合間に、購入したCDにサインをもらいました。 

さらにQ&A方式のワークショップが開かれ、吹奏楽部でフルートを吹いている中高生から上野さんに質問し、アドバイスをもらいました。若い方25名ほどが前の方に座って、目の前で音を出して具体的に教えてもらいました。概して女子学生の方が積極的で、男子学生は恥ずかしがり屋みたいでした。興味を引いたのはフルート「循環呼吸法」で、フルートを吹きながら息を吸う奏法です。これができると息継ぎで中断せず、長い間演奏をし続けられます。実際にやってもらって、本当に驚きました。結局午後2時から5時過ぎまで、上野さんは前に立ち続け、スマートなのに体力のある方でした。生のフルートの音を堪能して、幸せな時をいただきました。ありがとうございました。また、毎月会堂で練習をされているフルート愛好会「素笛」、指導されている池田博幸先生のご協力に心から感謝を致します。

フルート愛好会「素笛」とのアンサンブル


 
 
「主は罪人を招かれる。」   マルコ福音書2:1317  小山 茂 

《レビを招くイエス》
 今朝の福音は、主イエスが徴税人レビを弟子にする物語です。マルコ1章で漁師4人が弟子にされました。その召命の様子は今朝の福音に似ていますので、振り返ってみましょう。ガリラヤ湖畔を歩いておられた主イエスが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ二組の兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは網を捨て、父や雇人を残して従いました。そして今朝の場面でも、主イエスはガリラヤ湖畔に来られて、収税所に座っているレビを通りすがりに見かけられます。そして言われます、「わたしに従いなさい。」彼は言葉で応答せず、行動で立ち上がって主に従います。どちらの召命の場面でも、招かれた者が仕事中にもかかわらず、直ちに呼びかけに応じます。 

 主イエスが意図して導かれ、召された者が弟子として従います。私たちにとって不思議な出来事に思えます。聖書は事実だけを語り、弟子とされた者たちの心の動きを伝えません。牧師とされた私にとっても、弟子の召命は他人事ではありません。ですから漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、今朝の福音から知りたいのです。 

《徴税人・罪人と囲む食卓》
 ところで、徴税人の仕事はどのようなものでしょうか。当時国境を通過する物品に通行税が課され、その税を集めるのが徴税人の仕事です。その業務はローマの税金徴収を請け負った者が、税額を立て替えて先に納め、人々から税金を集めて穴埋めをします。多く集まれば利益を上げられます、少なければ損失を被ります。ルカ福音書にも徴税人ザアカイが登場します。ザアカイとレビとでは、同じ徴税人でも立場がまるで違います。ザアカイは徴税人の頭で金持ちですが、レビは徴税をするために雇われた者です。言ってみれば、社長と従業員の違いがあります。一方は利益を得られる経営者であり、他方は日雇い労働者にすぎません。当時は税率が決まっていなかったので、高く税金を取り立てて私腹を肥やす者も現れました。また異教徒と交わるため、ユダヤ人から汚れた者とみなされました。そんな訳で、徴税人はユダヤ人から軽蔑され、嫌われる仕事でしたから、罪人と同様に扱われました。 

 主イエスがレビの家で、食卓についている時のことです。大勢の徴税人や罪人も、主イエスや弟子たちと同席しています。ファリサイ派の律法学者たちは、その様子を見て弟子たちに言います。「どうして彼〔イエス〕は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らは主イエスを非難して、遠まわしに弟子たちに言ったのです。

 今朝のマルコ福音書のユダヤ人社会にとって、同じ食卓を誰かと一緒に囲むことは、相手を同じ共同体の仲間と認めることです。たまたま食事を一緒に摂るだけではありません。公式に仲間として迎えることであり、その食卓に招かれた人、招かれなかった人、その選びによってどの共同体に属するか決められます。主イエスが罪人や徴税人と一緒に食卓を囲むなら、ファリサイ派は主イエスと弟子たちを、罪人と同様に看做します。そして、彼らは主イエス一同とは、これ以降交わりを断つことになります。ですから、たかが食事を一緒に摂るではなく、その後の人間関係に大きな影響を及ぼします。ですから、律法学者は聞いたのです、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らにとって、誰と食卓を囲むかは大問題なのです。 

 食卓の交わりに関するファリサイ派の問いは、その後のキリスト者の間での関心事であり、筆頭弟子ペトロにも同様なことがありました。「ケファ〔ペトロ〕は、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻ごみをし、身を引こうとしだしたからです。」《ガラテヤ2:12》ユダヤ人社会において、異邦人や罪人と食卓を囲むことに、ペトロでさえ気を使っていたことが分かります。 

《罪人を招きに来た》
 主イエスはファリサイ派の非難を聞かれ、律法学者に直接答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」まるで医者について格言を語るように、主イエスは明言されました。それは、ファリサイ派に挑戦するかのように聞こえてきます。確かに病人には医者が必要であり、丈夫な人には必要ありません。さらに、主イエスがこの世に派遣された目的をはっきり伝えられます。ご自分は義人を招くためではなく、罪人を招くためにこそ来られたと。 

 この罪人というのは、彼らの律法を守れない人、律法どおりに暮せない人に、ファリサイ派が貼った「罪人」というレッテルです。そして、彼ら自身は律法を厳格に守るゆえに、神の前に義人であると自負しています。日々の生活に精一杯で余裕がなく、律法を守ることができない人を、彼らは神の前に汚れていると看做しました。主イエスは、律法に従って生きるユダヤ人のために、または律法を守れない異邦人のために、どちら側を招くために来られたのでしょうか。主イエスは罪人を招くために来られた、と神と罪人の間に立ちはだかる壁を突き破られます。それは、驚くべき逆転の真理でした。義(ただ)しい人を招くなら当たり前ですが、罪人を招くからです。ファリサイ派の律法学者は、主イエスから完膚なきまでに論破されました。彼らにとって大きな躓きとなりました。彼らの拠り所である、「自分たちは律法を守る義(ただ)しい人である」、それが木っ端みじんに砕かれたからです。 

 パウロはローマの信徒への手紙でこう語ります。「正しい者はいない。一人もいない。」《3:10》なぜなら、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」《3:23》からです。ルターはパウロにならって、律法によって罪は消えないが、ただ律法によって罪を知ることができる。その罪を認識させ悔い改め、キリストによる赦しが信じられる時、その信仰のゆえに神の前に義とされると言いました。いわゆるルターの信仰義認論で、信仰とは神への100%の信頼にあります。それゆえルターは、信仰者は「罪人であり、同時に、義人である」と言いました。私たちは罪人でありながら、主の憐れみに依り頼み、義しい者とされます。ですから、罪人でありながら、義人でもあると言ったのです。主イエスは漁師たちや徴税人を弟子に招かれただけでなく、罪人もご自分への信仰に招かれます。

《招かれる罪人》
 最初に漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、知りたいと申し上げました。主イエスの見つめる眼差しが、その5人を捕えて離さなかったのです。「わたしに従いなさい」とは、主イエスがあなたの生涯をわたしに委ねなさい、わたしがあなたの人生全ての責任を負いましょう。その招きの言葉が、彼らの心に響いたのでしょう。そして、徴税人レビ自身が医者を必要としていたのです。彼は道端に座って通る人々から税を集めて、軽蔑の眼差しが注がれていました。できることなら徴税人を辞めたい、でも代わりの働き口が見つからない。彼はそんな風に思っていたのではないでしょうか。主イエスはレビの心を見抜かれて、彼を招かれたのです。弟子とされる根拠は弟子にあるのではなく、主イエスの方にあるのです。 

 かつてルーテル神学校の教職神学セミナーで、カトリックの晴佐久司祭の話を聞きました。この方はカトリックで注目される五十代の司祭で、一度に80人もの受洗者を出すことで知られ、何冊もの説教集を出されています。私が参加したセミナーで、ご自分の神信頼をこう語られました。神が招かれたのだから、神が責任をもって私に関わってくれます。もし上手くいかないなら、神さま何とかしてください、あなたが招いた責任を取ってください。それを伺って、神からの召命をこのように考えてもいい、と本当に驚かされました。主イエスに委ね切る信仰は、傍から見ると不思議なくらい楽観的に見えます。私がルーテル教会の幼稚園から、見守ってくださった牧師夫人の福山ハルヨ姉もそうでした。数年前105歳で天に召されましたが、帰省すると老人ホームに訪ねました。一緒に讃美歌を歌ったり、教会の話をしたり、生き方が前向きで思い煩うことがありません。主イエスに委ねる信仰とは、傍から見ると楽観的に見えてくるものです。

 話を元に戻しましょう。今朝の聖書箇所より、主イエスから「わたしに従いなさい」と呼ばれたら、レビは疑問もなく御後について行きました。主イエスの招きは無条件で即座に従う、それがマルコの召命なのです。徴税人レビの場合は、自ら辞めるなら復職はもうできません。漁師4人は元の仕事に戻ろうと思えば戻れますから、レビの召命の方が厳しいものです。ですから、徴税人レビの覚悟は漁師たちより、優っていたでしょう。 

 
 

   「選ばれた者よ、愛し合いなさい。」 ヨハネ福音書15:1117 小山 茂 

《告別の説教》
 先週の日課は、ヨハネ福音書15章「イエスは真のぶどうの木」でした。それを前編とするなら、今朝はその後編になります。キイ・ワード〔鍵となる言葉〕は、前編と同じく「実を結ぶ」、「愛し合いなさい」、「わたしの掟」です。さらに後編では「わたしの友」、「わたしが選んだ」、「わたしが任命した」と、主イエスの意志が明確に加えられます。引き続いて弟子たちに、告別の説教が語られます。主イエスは十字架にかけられるとご存じの上で、弟子たちがご自分の言葉や行いを引き継いで、宣教を担って欲しいと伝えます。そして、彼らを僕ではなく、私の友であると言われます。また、互いに愛し合うように、愛の戒めを語られます。 

《僕と主人の関係》
 主イエスは弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」その互いに愛し合う根拠を、ご自分が彼らを愛したことに置かれます。主イエスが弟子たちの足を洗われたように、彼らも互いに足を洗い合うよう求められます。主イエスがひとりひとりの足を洗われた、その愛を知るなら私にはできませんとは言えません。さらに、愛について、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。その命を十字架で捨てられたのは、他ならぬ主イエス御自身であったと、弟子たちは後になって分かります。 

 主イエスはご自分と弟子たちの関係を、次のように言われます。「わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」僕と訳された元のギリシア語は、奴隷という意味があります。ですから、主人と奴隷の関係から考えるなら、より分かり易くなります。奴隷は主人から命じられたら、その通りにしなければなりません。ですから、命じられた理由を知る必要はなく、命じられた通りに行うだけです。しかし、主イエスは弟子たちに命じた理由を、父から聞いたことすべてを知らせます。だから、ご自分の命じることを行う者、すなわち弟子たちは友であると言われます。主イエスの選びによって、弟子たちは僕から友にされたのです。弟子たちの主でありながら、自らは彼らの友であると言われます。 

《イエスの選び》
 さらに主イエスは、弟子たちに言われます。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」聖書から私たちは、主イエスが弟子たちを選ばれた、と理解しています。殊に共観福音書のマタイとマルコは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、と明確に弟子の召命を語られました。しかし、私たち自身のことを考えるなら、事情は違うのではないでしょうか? 私たちは教会を選び、主イエスを信仰告白して、キリスト者にされました。ですから、私たちが主イエスという方を選んだ、と思い込んでいるかもしれません。しかし、実は逆だったのです。主イエスが言われます、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」主イエスの方から、私たちを選んでくださったのです。 

 実は私も主イエスを選んだ、と思っていたひとりでした。神学校入学した時ですから、今から12年前になります。当時の神学校長江藤直純先生は、最初の礼拝でこのヨハネ福音書から説教をされました。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」その御言葉を聞いた時、私は突然頭を殴られたような衝撃を感じました。自らのとんだ思い上がりに気づいて、何か恥ずかしく感じたことを覚えています。それは受け身の召命観と言って構わないものです。でも、私は今でもその感覚を、とても大切なものと思っています。 

 主イエスは、選ばれた者の使命を語られます。「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。」弟子たちを宣教に派遣され、私を信じる者を生み出しなさい、と命じられているのです。それこそが実を結ぶことであり、その実は新たな実を結ばせます。そのために、主イエスは彼らを弟子として任命されたのです。そのために、父なる神に祈って助けを求めなさい、求めるものは何でも与えられると約束されています。 

《愛の実を結ぶ》
 主イエスは結びのお言葉を、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と語られます。ギリシア語には、愛するという動詞が二つあります。ひとつの愛するは神の愛であるアガペーからくる〔アガパオー〕、もうひとつの愛するは友〔フィロス〕からくる〔フィレオー〕です。ヨハネ福音書では、〔アガパオー〕と〔フィレオー〕は同じ「愛する」という意味をもちます。そんな訳で、主イエスの友となる、主イエスを愛する、この二つは同じ主旨をもちます。ですから、主イエスの友とされて主を愛しますし、主イエスを愛してその友とされます。つまり、友となること、愛すること、両者は表裏一体になっています。 

 「互いに愛し合うことが、わたしの掟である。」また、「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。」これら主イエスのお言葉は、私たちの心に響いてきます。これまでにない強い調子で、掟である、命令である、と言われます。その中心にあるのが、「互いに愛し合いなさい」、つまり相互愛の戒めです。聖書には、「愛」という言葉が頻繁に登場します。殊に今朝の第二の日課の後半、ヨハネの手紙⑴ 4:712には、「愛」という言葉が15回も使われています。「神は愛である」とキリスト教が、愛をどれほど大切にしているか分かります。

 私たちの知恵や常識では、信仰とは私たちが神を愛することから始まります。しかし聖書では、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まります。私たちが神から愛されたことは、私たちの罪を赦すため、主イエスを生贄としてこの世に送られた、とヨハネの手紙は語ります。つまり、信じない者のために、独り子が命を献げられたのです。 

《神は愛である》
 ヨハネの手紙で、「神は愛である」と語られるように、愛する者は神から生まれ、神を知る者なのです。人間は自分の力だけで他の人を愛せません。私たちは神から愛されて、神の愛に触れて、初めて愛し合うことができます。身近に愛し愛される様子を、赤ちゃんが母親の胸に抱かれている姿に見ることができます。赤ちゃんは母親に安心し切っていますし、母親は赤ちゃんから100%委ねられる喜びに満たされます。その一方で、養護施設の子どもたちは愛情を求めて、施設のスタッフを困らせるそうです。子どもの許容されたい限界がエスカレートして、止まるところが見えなくなります。ある施設長は、どれだけ自分を愛してくれるのか、試されることが辛いと語りました。今の世の中、親子でさえ愛し愛されることが当たり前でない、そんな出来事を日々知らされると、相互愛の難しさを改めて感じます。
 
 愛を与えられないから、余計に愛を求めたくなる。それが、素直な人間の気持ではないでしょうか? 愛というのは強制されて、愛せるものではありません。それが、たとえ主イエスの命令であっても、掟であっても同様でしょう。しかし、私たちは主イエスの洗足や十字架を知って、互いに愛するように促(うなが)されます。愛の掟はヨハネの13章で既に語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」《13:3435》主イエスの愛によって形成されるもの、それは主イエスの造られた教会です。この阿久根教会であり、鹿児島教会です。そして、人々はその群れの中にある相互愛から、私たちが主イエスの弟子であると知らされます。このようにあなたも既に、主イエスの弟子の一人とされているのです。

「鹿児島中央駅屋上の観覧車」                                                    小山 茂 

 鹿児島市内から鹿児島中央駅を捜すなら、6階建ビルの上にある大きな観覧車「アミュラン」が目印になります。それは地上から高さ91m直径60mで、周りは高いビルに囲まれていますが、夜になると7色のイルミネーションに輝きます。快晴の日に鹿児島中央駅に来られたら、展望を楽しめるお勧めスポットです。料金は大人\500子ども\300、ひとつのゴンドラに4人まで乗って\1200です。ゴンドラは36個あり、シースルー用(透けて真下も見えるゴンドラ)が2個、車いす用(乗り口が広いゴンドラ)が2個あります。 

 高所恐怖の方は、足元が見えるシースルーは避ける方が無難でしょう。私も少し高所恐怖症気味で、山歩きで切り立った危険な尾根筋など苦手です。でも、自ら危険であると認識すると、注意深くなって却って事故を防ぎます。最近高所平気症という言葉を耳にしました。高層マンションに住む子どもに、高所平気症が見られるそうです。子どもは高さに対する感覚が未発達で、高い所にいる意識をあまり感じない。高層マンションの子どもは、高所に慣れる傾向があるため、高さの恐怖心が薄くなりやすい。そして下を覗き込んだりしているうち、誤って転落してしまうケースもあるそうです。
 

 この観覧車は一分間に13m動くそうで、一回転するのに1430秒かかり、思ったより早く感じます。一番高い所でパノラマ写真を狙って撮影しようと、待ちかまえていましたが、あっという間に過ぎてしまいました。今回で2回目ですが実際に乗ってみると、高くなるにつれて周りの視野が広がって、桜島、霧島連山、運が良ければ開聞岳が見えるかもしれません。山歩きが趣味なのでかつて登った山を、真っ先に捜してしまいます。台風6号の過ぎ去ったタイミングを狙って、昼頃行ったのですが期待するパノラマは望めませんでした。一人で乗って写真撮影のため場所を移動すると、ゴンドラも一緒に揺れます。観覧車の骨組みのパイプや、ゴンドラから物を落とさないよう格子状の鉄線があり、意外と写真撮影の邪魔になりました。ただ周りに邪魔する建物より高くなるので、観覧車は四方八方見るには適しています。地元の方は意外と乗られていないようです。一度機会があれば、乗ってみてはいかがでしょうか。

 
観覧車最高点からの桜島遠望

 
下からの見上げた観覧車

 

2015年5月20日水曜日

『友人の信仰が赦す罪』 マルコによる福音書2:1~12 小山 茂

 福音書記者マルコは、サンドイッチ構造〔パンの中に具を挟む形〕に語ることが好きで、今朝の福音書にも使っています。外側のパンは「中風の男性の癒し物語」で、内側の具に「律法学者と主イエスの論争物語」が挟み込まれています。ですから、今朝の福音書は二つのテーマがあります。
 ①主イエスが友人たちの信仰を見て、彼らの連てきた病人を癒すこと。
 ②主イエスが罪を赦す権威は、律法学者が言う神の冒涜にあたるの
   か。
主イエスのされる業の評価が、人々と律法学者とではまるで違っています。それでは、今朝の福音書に入って参りましょう。 

 最初のテーマである、「主イエスが友人たちの信仰を見て、中風の人を癒す物語」から語りましょう。主イエスはガリラヤ中に行かれ、それぞれの場で宣教され、悪霊を追い出されます。数日後にカファルナウムに再び戻って来られ、主イエスがシモンの家におられることが知れ渡ります。大勢の人々がその家に集まり、入口からびっしり人で埋まっています。その中心で主イエスは御言葉を語っておられます。そこに、友人四人が中風の男性運んで来ます。中風というのは今でいえば、脳梗塞などによって手足の麻痺が残り、自分の身体を思い通りに動かせない病です。癒しの業の評判を聞いた友人たちが、中風の男性を主イエスの所に連れて行けば、きっと癒してくださるに違いない。友人たちの一途な願いから、寝たままの男性を運んで来ます。入り口から主イエスの所まで人々でいっぱいで、男性をそこまでとても連れていけません。

 それなら外で待って、人々が帰ってからお傍に連れて行くより他ありません。でも友人たちは待ち切れずに、とんでもない方法を思いつきます。主イエスのおられる辺りの屋根に上がり、その屋根を剥がし、男性を寝床ごと吊り降りします。四人の手が床の四隅に結んだロープを降ろします。当時この地方の家には外階段があり、梁を渡す角材の上に屋根を葺いていたようです。病人は主イエスの目の前に、吊り降ろされました。主イエスは友たちのご自分への信頼をご覧になって、病の男性に宣言されます。「子よ、あなたの罪は赦される。」友人たちの大胆な方法に、彼らの信仰をご覧になり、主イエスは応答されました。

 さらに、主イエスは男性に言われます、「起き上り、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その男性は起き上って、床を担いですたすたと、皆の前を通って行くではありませんか。人々は今しがたまで床に横たわっていた男性が、主イエスのひと言でその中風を癒されました。彼らはその一部始終の目撃者となりました。人々は正気を失うほど驚いて、『こんなことは、これまで一度も見たことがない』と、神を賛美しました。 

《友人たちの信仰》
 ここで意外なことがあります。マルコ福音書が中風の男性の信仰について、何も語っていないことです。主イエスは友人たちの信仰をご覧になって、男性の罪が赦されると宣言されました。友人たちがこのお方イエスなら、男性の病をきっと癒してくれるに違いないと思う信頼を、主イエスは彼らの信仰と呼びました。元のギリシア語〝ピスティス〟は、聖書では信仰と訳され、信頼という意味もあります。でも、当の男性は信仰の告白をした
わけではありません。主イエスは本人の信仰を問うてはいません。彼らが大胆な行動にでたのは、男性が癒されて自分たちと同じように動けるようになって欲しい、その一点の願いからでした。

 鈴木浩先生の注解書「ガリラヤへ行け」にあるコメントに、私は成程と思えるところがあり、主要な部分を紹介させてください。「明治以来、日本のキリスト教は、『個人の信仰的決断』を強調してきた。・・・しかし、その点だけが過度に強調されて、信仰が持つもうひとつの重要な側面が見失われてしまうとしたら、危険だと言わねばならない。つまり、我々一人一人の信仰は、教会の信仰から離れてはあり得ないという点である。・・・ひとりひとりの信仰は、教会の中で、教会と共に信じる信仰なのである。信仰には、従って、個人的側面と共同体的側面とがあることになる。・・・この四人が中風の人の信仰の代理をしているのではなく、この中風の人を『包み込んでいる』信仰なのである。この人と無関係でいいような信仰ではなく、この人が救われないなら、自分だけが救われたいとは思わないような、そういう信仰なのである。だからイエスは『その人たちの信仰を見て』、この中風の人に罪の赦しを宣言されたのである。」他の注解書にはない、鈴木先生独特のコメントで、感動的でさえあります。私たちもこのような『包み込む信仰』をぜひ持たせて欲しい、と思いませんか。大切な人のために必死になって願う、その願いを叶えてくださる方に百%信頼するのです。 

 教会の信仰とはその群れの中で養われるもので、教会共同体の中で互いに祈り祈られます。教会生活の中で証しをしたり、聖書研究会に参加したり、周りの人から祈られたりされます。礼拝の中で私たちが、教会の祈りを献げるのも同様です。教会員の中に痛みをつ人を憶えて祈ったり、世の中で困難に陥っている人を憶えて祈ったり、災難にあって希望を失っている人を憶えて祈ったりします。周りから「包み込まれる信仰」によって、祈られた人の信仰は背後に隠れたまま、主が祈りを聞き届けてくださる。それは、私たちにとって、大きな慰めであり、希望となります。四人の友人はまさに中風の友のために祈って、屋根を破ってまでして、主イエスの前に彼を降ろしたのです。

《罪を赦す権威》
 二つ目のテーマである、「主イエスが罪を赦す権威をもっているか」、について語りましょう。主イエスが中風の人に言われます、「あなたの罪は赦される。」それを聞いた律法学者たちが、「この人は神を冒涜している」と心の中で考えます。ここから両者の論争物語が始まります。彼らは、「罪を赦すことができるのは神お一人だけ、その他に誰もいない」と考えています。彼らから見れば、主イエスはただの人に過ぎません。主イエスが罪を赦せるなら、この方は神でなければなりません。まさにその通りなのですが、彼らにはその真実が見えません。それゆえ、主イエスは神を冒涜していると断定します。彼らの権威は律法を拠り所としていますので、主イエスが罪を赦す権威をもつとは知る由もありません。もし、主イエスが「起きて、床を担いで歩け」とだけ言われて、中風の男が癒されたなら、彼らは文句をつけなかったでしょう。それほどに、「罪の赦し」と「病の癒し」とは違うものなのです。数学でかつて「集合」を習いましたが、「罪の赦し」という大きな円の中に、「病の癒し」はすっぽり入ってしまいます。 

 主イエスは律法学者たちを、挑発されるように言われます。中風の男性に「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」主イエスの業の及ぶ範囲は、「赦される罪」の方が「癒される病」より遥かに大きいのです。「赦された罪」のひとつに、「癒された病」も含まれます。主イエスは畳み掛けるように迫ります、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」罪を赦されたと宣言された中風の男性は、既に病からも癒されています。それでも、主イエスは駄目押しをされるように、「わたしはあなたに言う。起き上り、床を担いで家に帰りなさい。」この時から律法学者たちは、主イエスが神を冒涜したと、両者の対立が始まります。 

《包み込まれる信仰》
 友人四人が中風の人を主イエスの前に、連れ出すためにとった大胆さを、彼らの信仰と認められました。この方の前に友を連れて行けば、癒してくださるに違いない、その確信が彼らに大胆さを生み出しました。そして、友人たちのこの方への信頼を、主イエスは彼らの信仰と認められました。どちらが先でどちらが後かではなく、双方の意志がぴたりと合ったから、起きた奇跡の出来事になりました。中風の男性の信仰は背後に隠れていますが、彼を取り巻く友人たちの信仰に、主イエスは応答されました。共観福音書のマタイ、マルコ、ルカにそれぞれ、「あなたの信仰が、あなたを救った」《マルコ5:34》と主イエスの救いの宣言があります。今朝の福音では、「あなたの友人の信仰が、あなたを救った」と言い換えてもいいでしょう。本人の信仰より先に備えられる、友人たちの信仰によって、私たちが救われることがあります。

 私たちは何かに阻まれて、神に向き合えない時があります。自分を阻む壁を前に思い悩むより、その壁に風穴を開ける大胆さを持ちたいものです。さらに私たちの抱える課題、主イエスの前に吊り降ろす勇気もあったらいいですね。そして、周りの人たちが友を憶えて祈るなら、友人を包み込む信仰によって、主イエスはその祈りをきっと叶えられます。その友人がキリスト者かどうか、主イエスはそんなことに頓着されない、太っ腹をお持ちなのです。この主イエスについて行かないで、私たちは誰について行きますか。
 
(2015年2月8日 顕現節第6主日)

2015年4月14日火曜日



「春を見つけました。」                                                                      小山 茂 

 明けまして、おめでとうございます。南九州でも12月から寒い日が続いています。桜島の頂上が何度も、白い帽子を被りました。寒ければ寒いほど、春が待ち遠しくなります。それなら春を捜しに行こうと思い立ちました。1月中旬では梅の開花にはまだ早いし、蝋梅(ロウバイ)は梅より早く咲くので、県内のどこかに咲いていないか調べました。指宿にある「フラワーパーク鹿児島」に蝋梅があり、すでに開花しているそうです。これまで満開の蝋梅を見たことがなく、今年こそ期待しています。この花は満開になると、ほのかに甘い上品な香りを漂わせ、その香りも楽しみに出かけました。見つけて花に触るほど鼻を近づけると、淡い香りがします。日本水仙に少し似ていますが、それほど強い香りでありません。未だ花の盛りではないからかもしれません。なお、蝋梅は梅の種類ではないそうです。 

 フラワーパークの中を歩いていると、野生のウサギが灌木の下にいました。期待を超えた世界に招かれたのは、蝶の館〔ガラス張りの温室〕の中に「オオゴマダラ」という蝶が飼育され、たくさん飛んでいたことです。国内では奄美や沖縄に生息するもので、日本の蝶では最大の大きさです。ゆっくりと羽ばたきをして、フワフワと優雅な飛び方をします。蜜を沁み込ませた造花などに群がって、手を伸ばせば掴まえることができそうです。幼虫は金色の蛹(さなぎ)になって、尾部の一点で枝や葉の裏などに逆さにぶら下がります。この幼虫はホウライカガミの葉を食べることで毒を体内にため込み、他の動物から捕食されないそうです。そんな面白い生態をもった、チョウ目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類される一種だそうです。興味を持たれた方はぜひ次のHP
http://www.fp-k.org/butterfly/index.htmlにアクセスしてみてください。 

 指宿では先週の111日に、「指宿菜の花マラソン」がありました。日本で一番早いフルマラソン公認コースで、黄色い絨毯のような菜の花畑が、池田湖や薩摩富士と呼ばれる秀麗な開聞岳が、ランナーを迎えてくれました。私が訪れた日の天気は薄曇りでしたが時折日が射し、黄色がより一層鮮やかに映えていました。春の訪れを感じる「菜の花」と「蝋梅」を、南九州に一足早く見てきました。
池田湖より開聞岳を望む
野生のウサギ

フラワーパーク鹿児島の蠟梅
フラワーパークかごしまのオオゴマダラ