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バナナの種

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『バナナの種』  バナナには種があるのでしょうか。食べながらふと思いました。実は今のバナナには種がないのです。「うそつけ、真ん中に黒い点があるじゃないか」といわれそうですが、それなら植えて出てくるか試してください。あれは種ではなく種の名残なのです。人間が食べやすいように品種改良され、種なしになってしまったのだそうです。それでは新しいバナナはどうやってできるのか。実がなったあと、根本からばっさり切ってしまうと新しい株がでてくるというわけです。人間の発見も素晴らしいですが、自然の力には驚かされます。      ばっさり切られてもまた生えてくる。倒れても立ち上がる。その背後にある力を感じます。それが信仰の力だと思うのです。イエス様は「泣かないでいなさい」(ルカ 7:13 )と一人息子を亡くした母親にいわれました。イエス様に自分の全てをまかせれば、切られても倒れても泣く必要はありません。立ち上がる勇気を、恵みとしていただくのですから。

光を迎えて

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ヨハネ  1:4-5  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。  クリスマスおめでとうございます。この世の光としてお生まれになったイエス様のことを覚えます。そして、光がこの世にこられたので、私たちの人生もこのように明るい朝を迎えることができるようになったのです。今朝の礼拝の参加された皆さんにはこの世の光としておられるイエス様が実感できるのではないでしょうか。ただとても寒いですが。  ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。 クリスマスはもともと冬至でした。冬至は、二十四節気の第 22 番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が 270 度のときで 12 月 22 日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ 4 世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。 イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

問いに答える

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『問に答える』  ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要ではないでしょうか。伝道も同じだと思います。この地に住んでいる人にとって、キリストとは何かという問いをもたせるには、どうしたらよいかということです。     「私達が死んでもいいのですか」という弟子たちの問いに、イエス様は、「なぜこわがるのか、信仰がないのか」(マルコ 4:40 )といわれています。問いに答えるのは神様のみでいいのです。 

2016年感謝を持って

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ルカ  2:29  主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 クリスマス主日が終わると、教会も 1 年のまとめに入ります。今年 1 年はみなさんにとってどのような時でしたか?喜びも悲しみも、楽しみも試練も様々なことがおこったことでしょう。しかし、それは私たちの人生の一部です、毎日変わる人生の出来事に中で変わらないものをみつけています。それは神様です。そして神様から与えられる信仰です。この信仰をもって 1 年を振り返ります。 幼子イエスをメシアと告白するシメオン賛歌で、クリスマスの出来事はクライマックスを迎えます。シメオンは幼子イエスを見たとき、イザヤ書の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」という預言の成就を見ました。神様の言葉が実現したことを見たシメオンは「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌うことができました。神様による約束は必ず実現することを知ったからです。  京都の清水寺に、大西良慶という貫主がおられました。良慶貫主が書かれた本の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟ができた時」という言葉があります。100歳を超えての法話で語られたものです。良慶さんとして親しまれた老和尚の含蓄のある言葉に感銘を受けました。「ほっといたかて死によるんやから、死をおそれない」。すでに悟りを開かれていたのでしょう。なんだかシメオンと通じるものを感じました。  2016年も仕事納めがちかづきました。今年1年を振り返り、神様からの多くの恵みと導きがあったことに感謝したいと思います。私たちの働きは、神様の働きの中の一部分にしかすぎません。しかし、その一部分でも各自が誠実に関わって1年の終わりを迎えることができます。シメオンはいいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」今日1日はそのことを覚えて感謝のうちに 1 年の納めをしたいと思います。

2016クリスマスおめでとう!

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 クリスマスおめでとうございます。今年も御子の誕生を迎えることができました。今年は4月に熊本地震があり、いつもとは違ったクリスマスを迎えました。しかし私たちには違ったクリスマスでも、神様にとっては同じクリスマス。神様は共におられることには変わりないクリスマスです。 2016年は「恐れ」を知らされた年でした。熊本地震で地の基が揺り動かされる「恐れ」を覚えました。私たちの生活は、なにげない生活です。そのなにげない生活など一瞬にして吹き飛ばされてしまうのです。わずかな幸せさえ、突然の出来事にそして一歩間違うと、わかなくも消え去るという経験をしたのです。今年私たちは「恐れ」を経験しました。しかし、「恐れ」の経験は、同時に「神様との出会い」の経験でもあるのです。 クリスマスの出来事は、すべて「恐れ」に対する、信頼と従順のうえに成り立っています。信頼の上に立った人間の、神様に対する従順が、神様のひとり子を人間に迎えるという奇跡を起こしたのです。この奇跡のゆえに私たちもインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ぶことができます。私たちはつねに「恐れ」のなかにあって、神様と出会うのです。「恐れ」の中で、神様の救いはいつまでも私たちと共にいてくださいと祈るのです。《神は我々と共に》この喜ばしい知らせは、神様への「恐れ」を知った者のみが、信頼と従順のゆえに告白できる信仰の宣言なのです。 私たちはいろいろな状況に立ちつつ、神様を迎えています。仮設住宅で、半壊した自宅で、新しく住み始めたみなし仮設アパートで。しかし、それがどのような場所であっても神様が共にいてくださる場所はあります。神様のみ言葉を信頼して受け取るときに奇跡はおこります。その奇跡にこそ希望があるのです。クリスマスおめでとう。

クリスマス礼拝

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祝 クリスマス! クリスマス礼拝 本日24日(土)10:30~ フルートコンサート 14:00~

気ままな休日

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お休みの日はグルメ 熊本には「あげたて」という安くて美味しい天ぷら屋さんがあります。    目の前で天ぷらを揚げてくれます。     しかも7品で700円。ご飯、みそ汁お代わり自由。    イカの塩辛、高菜漬けも食べ放題!    いやいや、このボリュームですよね。豚の天ぷらと鳥てんぷら。しかも温泉卵。これって最高の組み合わせ。    どんな問題というかんじでしょう!

オカアサンヤスメ

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『オカアサンヤスメ』  上前淳一郎氏の『読むクスリ』の中で、「若者の食事が洋食にかたよりすぎているのは、母親に原因がある」と書いてありました。すなわち、「オカアサンヤスメ」だそうです。なんだそれはと思う方へ。オムレツ、カレ-ライス、アイスクリ-ム、サンドイッチ、ヤキメシ、スパゲッティ、メダマヤキ。どれもインスタントでできる手抜き料理で、子供が喜ぶものだそうです。もうひとつ、「ハハキトク」といのもあります。ハンバ-グ、ハムエッグ、ギョウザ、ト-スト、クリ-ムス-プ。     これはなぜいけないと思いますか。答えは噛まなくても飲み込めるものばかりだということです。それで顎の力が弱い若者が増えたのだそうです。皮肉なことにこの現象を発見したのはお母さんたち自身だったのですが。     インスタントでできる料理は簡単です。栄養化も高いのかもしれません。しかし大切なことに気づきたいと思います。この気づきこそがイエス様からの恵みかもしれません。イエス様は私達が気づくまで待っておられます。待つことは愛です。     さて、気づいたお母さんたちが今提唱しているメニュ-とは、「お母さん大好き」です。お知りになりたいかたは、「読むクスリ」をどうぞ。

上に立つ権威に

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。   ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。 パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。   街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。  パウロは「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉しかありません。そこに権威があり、その

見物人の研究

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『見物人の研究』  サル山で、おもしろい研究をしていると聞かされました。その研究とは、サルの社会そのものの研究ではなく、サルを見にくる人を研究の対象にしたというのです。具体的なことをいえば、若い女性の集団がサル山にやってきて、子ザルを目の前にするとかならず、「かわいい-っ」とシュプレヒコ-ルがおきる。中小企業の管理職といった男性はどうかといえば、「どれがボスだ」と探して、「あれだな」と分かると帰るまでボスの統率ぶりを観察しているといいます。また、日本人と外国人の間にも違いがあるといいます。見物人はどうも自らの内のものを、サルやサルの群れに投影しているというのです。信仰もそうかもしれません。しかし、ただひとつ違いがあるとすれば、神様が私達のなかにキリストをみておられるということでしょう。

はじめに

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 マルコ 1:1  神の子イエス・キリストの福音の初め。 エッセイでも、絵本でも、まず第1行に苦労します。最近はエッセイでこの1行が出てこないので、後の文章がすんなりいかないもどかしさを感じています。あとで言いたいことがあるときの第1行はそこにむけての導入になります。導入を書きすぎるとそれだけで文書の全体が解ってしまいます。そうすると最後まで読まなくていいやとなるのです。第1行を読んでもっと読みたいと思っていただける文章が書ければいいなと思います。 マルコによる福音書は、イエス様のことを記した最初の書物です。最初ですから、何から書きだしてもよかったのです。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書きました。ですからこのあとイエス様の事を書いた書物を「福音書」という名前でよぶことになったのです。最初に何から書きだすか。それは、その書物全体を表すもので、大変大切なところです。 いま新しい絵本を執筆中です。絵本で一番難しいのは物語がはじまる出だしです。小説を書こうと思ったら、出だしが出来た時にすでに完成していると言った人もいます。会心の出だしなどみつかりません。しかし、会心の出だしを学ぶには絵本を読むのが一番です。「こぶたのおるすばん」の出だしはこうです。「むかしあるところに、ブタの一家がおりました。とおさんブタとかあさんブタがありました」。これで1頁が終わりです。この絵本は悪いベビーシッターの物語です。ブタの一家なのに子どもはどこか思う。家族の舞台設定はすでにこの1行でできている。この1行があとの物語に影響を及ぼすのです。見事な出だしだと思います。 マルコによる福音書の出だしは「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。最初にかかれた福音書ですからどんな言葉ではじめてもよかったはずです。しかし、福音書の始まりは、これしかないという出だしです。何が書かれてあるか、何を書こうとしているか。たった1行で表現してあります。私たちの人生を絵本にするなら、出だしは何と書くでしょうか。

横濱炒飯弁当

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気ままな土曜日 いつもは空弁の炒飯弁当ですが、今回は駅弁です。 どこが違う。うん味は同じようだけど、おかずが、レイアウトが違う。 まあ~どちらも私は大好きで~す。

賢さは心から

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『賢さは心から』  バスを待っていたときのことでした。お母さんらしい人が子供に、「脳のシワが多いほど頭がいいのよ。うんと勉強して、シワをふやしなさい」と言いました。すると子供は、「それじゃお母さんは、顔で考えているのね」と返したのです。横にいて関心させられました。     「頭がいい」という言葉をよく聞きます。いまでは勉強がよくできることをいうのでしょうが、私などは「賢い」といわれたいです。この「賢い」とうのは聖書では心の問題としてでてきます。つまり、人の賢さは心から出てくるものではないでしょうか。     いつも心に自分以外の人の存在がある人は、優しい人です。いつも心に優しさのある人は暖かい人です。そして暖かい人の心には、キリストが見えるのです。心のシワをどんどんふやしていきたいものです。

呼吸を合わせるリズム

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ルカ   12:42 主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 「呼吸を合わせる」というカウンセリング療法があると聞きました。呼吸を合わせるとどうなるのだろうと思います。どうやったら呼吸を合わせることができるでしょうか。私は高校の授業で柔道を習った以外、武道を経験したことがありません。しかし、その数少ない柔道の経験の中に「呼吸を合わせる」と言うことを教わったように思います。ただとても難しかったという記憶がある程度です。 イエス様は、おわりの時に備えて「常に目を覚まして待つ」ことを、「目を覚ましている僕」のたとえで教えられました。主人がいつ宴会から帰ってきてもいいように準備し、目を覚ましている僕は幸いであると言うのです。ユダヤの夜の時間は3分割されており、夜、真夜中、夜明けとなります。そのとき、時間通りに仕事をすることの幸い、そして主人がそれを知る幸いを語っています。 生活にもリズムというものがあります。いつしか同じ時間どおりに生活しているのがわかります。そのリズムがちょっとでも狂うと、なんだか不安定な感じになるものです。ある時、忘れ物をしたために出勤時間に家に戻りました。するといつも乗る電車に乗り遅れてしまいました。たった10分のことですが、リズムがすべて混乱したように思います。たった10分でも、電車に乗っている人たち、その数、降りる駅など全く違って感じたのです。乗り継ぎも悪くなり、朝からなにか躓いてしまったような感じでした。これまで、生活のリズムなどあまり気に留めませんでした。いつのまにか自分で作り出している、自分のリズムがあります。一番心地よいリズムを刻むように生活しているのかもしれません。そう思うと共同生活するときのリズムも相手の立場に立って考えることも大切だと思います。 イエス様は「 時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人」と言っておられます。主人のことをよく考えて行動している僕の話です。自分のことばかりでなく、神様が何をされようとしておられるか。私達はなにをするべきなのか。神様に忠実な僕とは何かを考えて生活していきたいと願います。

我をみよ

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『我をみよ』  何を書こうかとさんざん悩んだあげく、とうとう時間切れになってしまいました。仕方ないのでイソップの寓話を読んでいましたら、有名な「かにの親子」という物語に改めてはっとしました。     その物語は、皆さんもよくご存知だとおもいますが、かにのお母さんがその子に、「横にはうものではありませんよ。またわき腹をじめじめした岩にこすりつけてはいけませんよ」といいました。子どもは、「そう教えてくださるお母さんがまっすぐに歩いてください。私はそれを見てその通りにします」といいました。     久し振りで読むとなかなかのものです。私たちはあまり自分をみませんし、していることがどう見えているのかわかりません。イエス様は「我をみよ」と言われます。「我に従え」といわれます。よく見てみましょう。そこには十字架が見えてきます。すると私たちの救いが見えてきます。心が暖かくなります。

ことば

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。 箴言 12 章 16 節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。 クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。 箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。  クリスマスがやってきます。この季節も「言葉」からはじまります。天使がマリアのところにやってきて「おめとう」の言

体育館の裏

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『体育館の裏』  牧師館から隣の中学校がよくみえます。とくに体育館の裏などは丸見えです。昔、体育館の裏といえば一種の隠された場所で、いろいろといけないことをしたものでした。よく授業をさぼって見つかったものです。    ところが隣の中学校は、体育館の裏が丸見えです。いろんな面白いことがあります。たとえば運動部のランニング。体育館の裏も一生懸命に走る子もいれば、急にさぼる子もいる。微笑しいです。    誰もみていないと思っているのでしょう。ところが誰かに見られている。ちゃんと知られているのです。そう思うと、神様もそうです。ちゃんと見ておられる。しかしだからといって細かいことを責められはしません。「さぼりたかったらそうしてもいいよ。気づいたらまた走ればいいよ」と言われているみたいです。      どう生きるかはあなた次第です。おおきな愛で包まれているのですから。  

待降節第3主日

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大江教会 礼拝説教 待降節第3主日礼拝  説教:立野泰博 牧師      ヨセフって誰?    <音声礼拝説教は 「神様の色鉛筆」 でどうぞ!>

きままな土曜日

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   熊本地震がおこり、南阿蘇も大きな被害が出ました。大好きだったそば道場。    大きな被害を受けた阿蘇ですが、それでも再開しておられます。    あの味をぜひ!道がまだ大変ですが、そのうちに道も復旧するでしょう。    画像を整理していたらでてきました。復興を願ってアップします。

悔い改めて待つ

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。 聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。 ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。 聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

イエス様を知らずに死んだら

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『イエス様を知らずに死んだら』  ルタ-先生に学生が聞きました。「先生、イエス様を知らずに死んだ人は救われないのでしょうか。信仰のあるものしか救われないと聖書には書いてありますが・・」この問題は実は私たち日本人のキリスト者の問題でもあります。自分ひとりが救われればよいというのものではありません。イエス様の名前を知らない人はたくさんいるのです。また、信じていない人はもっとたくさんいるはずです。     さてそこでルタ-先生はなんと答えたでしょうか。「信仰がある、ないということは神だけが御存知である。我々が決めることではない。だからあなたは信じていればよい」。      私たちはすぐに判断することが多いものです。しかし、神様のこと、救いのことは一生の問題でもあります。ゆっくりかまえていきましょう。あなたのひとつの救いが、周りの人を巻き込んでいくのです。信仰とはそれほど大きな力をもっているものです。パウロは言います。「イエス様を信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝)。それほど神様の救いは広がりをみせるのです。

真理の道

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ヨハネ   4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。  教会を離れる原因の第1位は「人間関係」だそうです。教会内の人間関係につまずいたということだそうです。しかし、ちょっと考えるとそのおかしさに気が付きます。神様との関係はどうなのだろうと。イエス様との関係はどうか。それは個人でもつながっておれるという意見のようです。本当にそうでしょうか。同じ信仰持つ者の交わりが教会です。神様との関係もこの交わりの中にあると言えます。人間関係につまずいたという人の意見はなにか違うものを感じます。  イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。 イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。 私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感した道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かう道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。私たちにとって救いの道はイエス様です。イエス様そのものが道であり、真理であり、私たちはその道の上を自分の十字架を背負って歩いています。この道は確実に救

その人にあった成長を

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クレヨン牧師ののミニエッセイ 『その人にあった成長を』  中国の昔話にこのようなものがあります。     「ある人が種をまいてから、毎日毎日その畑を見回っていました。ところが、となりの畑の方が芽の伸びがよい。うちの方が悪すぎるということに気づきました。そこである夜、自分の畑にでかけていき、一本一本手で引っ張って伸ばしました。翌日あれからどれだけ伸びているか期待してみにいきますと、全部の芽がお辞儀をしていました」。笑い話ですが、よく考えると笑えない話です。神様はその人にあった成長を一番よく知っておられます。ところが私たちは無理に伸ばそうとして駄目にしてはいないでしょうか。      教会も同じだと思います。神様はその教会その教会の、成長を知っておられます。無理に引っ張ってみたり押えてみたりしていないでしょうか。私たちがキリストの体である教会を成長させるのでなく、その成長に参与したいものです。それには楽しくなければいけません。「神を喜ぶ」(ロマ書)です。  

ゆとり

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。 「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにしたそうです。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計が飛ぶように売れているそうです。  イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。しかし、本当にそうかなと思います。イエス様が何も持っていくなというとき、それは神様にすべてを委ねなさいということだと思います。それが出来ないから燃え尽きてしまいます。 賀来周一先生が信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して紹介されていました。先生は「いい・加減」のすすめと題してこの問題を取り上げておられました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「時間をかけてよい」というおまじないを自

大江教会礼拝です!

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  待降節第2主日礼拝  説教:立野泰博 牧師      祈りのクリスマスへ (大江教会の礼拝です)    <音声礼拝説教は 「神様の色鉛筆」 でどうぞ!>

気ままな土曜日!

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   九州では、いや熊本で、いや我が家では、天ぷらうどんとはこれです。    これは丸天ですね。みなさんにはさつま揚げに見えるでしょうか。でも天ぷらうどんはやっぱりこれじゃなけりゃ。    むかし高校生時代はパルコ下の三笠うどんでよく食べていました。昔はパルコではなかったですが。これにネギを山ほどかけて。なつかしいです。ねぎは食べ放題でした。またたべたいな~

神様はみえないのよ

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『 神様はみえないのよ』  桜が満開になると、春がやってきたという実感がわいてきます。      花といえば思い出すことがあります。あるとき幼稚園のこどもが教えてくれました。「お花は自分の嫌いな色をつけているのよ。赤いお花は赤が嫌いなの。黄いろのお花は黄いろが嫌い」。話を聞いているうち、どうしてそうなるのかなと考えてしまいました。     確かに嫌いなものを前面にだし、「あれもいやだ、これもいやだ」といいながら生きている私たちですが、自己主張するほどでもありません。また、「あれも好き、これも好き」と思えるほど積極的にもなれません。私たちなりの色があるのでしょうか。     しかしその子は続けて、「だから神様は嫌いなものがないからみえないの」。その透明さが私たちを包んでくださるのですね。 

本当の大人

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「本当の大人」 フィリピ 1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。 多くの人は失敗したときに「こんなはずじゃなかった」と言います。その背景には「自分は利口なのに」「なんでこんな自分が」と思うのです。はじめから「自分は失敗する人間だから」とおもっていたら、「こんなはずじゃなかった」とは思わないし、失敗しても立ち直るのが早いものです。作家の遠藤周作が「本当の大人というものは、自分のすること、為すこと、必ずしも正しくないことを知っている存在である」と言っています。 パウロは、フィリピの信徒のため「知る力」「見抜く力」を身につけるようにと祈っています。この箇所はとりなしの祈りの部分で、フィリピの人々に正しい教えを知ること、それに従って行うことを勧めています。神様の前に、自分は何者であるかを知り、自分を吟味して、見分ける力を与えられるようにと祈るのです。 数学者の教授が「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と指摘されていました。私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。 神様の前には、私たちは正しいことを為しえないと知ること。それを自分の中に見抜くことで愛が深まるように思えます。いつも自分が正しいという立場では、相手を思いやることはできません。本当の大人、信仰者とは、神様の前に自分の愚かさを知り、重要なことを見分けられる人のことでしょう。

受け取れない恵み

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『受け取れない痛み』  病院で看護補助のアルバイトをしていたときがあります。毎日多くの方が入院してこられます。その中にはこの病院で一生を過ごすであろう方もおられました。その方が若ければ若いほど胸をしめつけられる感じがしたのを覚えています。      あるときカルテをみてびっくりしました。私と同じ年令で、二人の幼い子供たちがおられました。その方も一生を病院で暮すであろう方だったのです。      そのとき私は、この人の痛みや苦しみを共にできるだろうか、いや私は共にできないと思いました。私には受け取ることのできない痛みや苦しみがこの世にあることを知ったのです。その方は会話のなかで次のように言われました。「俺の苦しみは俺にしかわからないよ。あとわかるのは神様かな」。      十字架の主はなぜ苦しまれたのでしょうか。それは、痛みを知るためではなかったでしょうか。「私だけはあなたの痛みがわかるよ。安心していいよ」と、イエス様が言われるためだと思います。イエス様だけは知っていてくださるのです。 

単ではなく

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「単ではなく」 エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。 パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。 パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよって、キリストの体となり一つになりましょう。

フリージアを求めて

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『フリ-ジアをもとめて』  いまは昔のことです。あるとき好きだった女の子が、「私、フリ-ジアの花が大好き」というのを小耳にはさみました。ところがその子が突然に転校することになったのです。なんとか思いを伝えねばと考え、フリ-ジアを贈ることにしました。      ところが、花など桜とチュ-リップしかわからない私でしたから大変でした。フリ-ジアの花とはどんなものか、植物図鑑から国語辞典はたまた英語辞典まで調べました。何とかわかったのは、原産地はどこで何科の植物ということでした。しかしこの花が日本にしかも熊本にあるとは思えず、絶望に追い込まれてしまいました。それでもこの花が贈りたいという一心で近くの花屋さんにいき、次のようにいいました。「フリ-ジアに似た花を下さい」と。すると花屋さんはこういったのです。「フリ-ジアはあるけれど、似たものはないねえ」。飛ぶようにうれしかったのを覚えています。    フリ-ジアを見るたびに、神様はそのようにして私を探してくださったのだと思えてなりません。