2016年10月31日月曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

マタイ  12:33 木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

教会のベランダには3本のオリーブの木がありました。ある時その1本に実がつきました。神様が造られた命の力強さと神秘を思います。3年目にしてやっと実を結んだのです。ほとんど気づかれずにそこにありました。それがいつのまにか実をつける。神様が命に対してされることは、確実なことなのです。

イエス様は、人の行為や言動を問題とされました。その善し悪しは「結ぶ実」でわかると言われたのです。すべてのことは、その人の外に現れてくる。その人が結ぶ実でわかるというのです。どんなに後からとりつくろっても、人間の内面にあることは、必ず外に現れてくる。そのことをみれば、善し悪しは分かるのだと教えられました。

 「『頭がいい人』と言われる文章の書き方」と言う本を読んでいます。その中に、文章を書く鉄則としていくつかあげられています。その一つに「自分のわからないことは書かない」というものがあります。教会の月報や週報で、いくら読んでも意味や内容がつかめない文章があります。また、礼拝説教などもよくわかないことがあります。それは読む側、聞く側の理解力が足りないということもあります。しかし、多くはそうでないと思います。つまり、書いている、語っている本人が、理解しないままに書いたり話したりしていることが原因の多くを占めるのです。そのような文章の特徴は、抽象的な文章が多い、内容がぼけているというものです。「わからないことをわかったように書く」のは所詮無理なことです。ですから、大切なことは、「わかっていることを丁寧に書く」ことしかありません。内面のことは必ず外に現れているのです。

 イエス様は「その結ぶ実で分かる」といわれました。どんな実を結ぶかは、その内面の信仰によるのです。結んだ信仰の実によって、その人自身もわかることになります。木と実の関係は、心と言葉の関係に置き換えられています。どのような実を結んでいるかで、その人の内面が見えてきます。

2016年10月29日土曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『目をつぶって見えるもの』
「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。
 この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんですよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。
 私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。

2016年10月28日金曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

使徒言行  12:9 ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。

ある青年が海外での楽しい経験を話してくれました。彼女は海外のワークキャンプに出かけるときは必ず女性誌・週刊誌を持っていくそうです。だいたい日本人は何に興味があるかはそれをみればわかるし、海外の青年たちも日本での様子に会話が弾むのだそうです。そのような会話でいつも海外の青年たちがいう言葉は一緒だそうです。それは、「日本という国はbefore(ビフォー)とafter(アフター)ばっかりだね」ということです。つまり、「はじめ」と「あと」の広告がたくさんあるということです。そういえば、ダイエット、美容整形、金運、開運などの広告がおおく、それをする前と後のことばかりが中心です。しかもどれをみても、後のほうが素晴らしいというものばっかりです。前よりも後の方がいいというのは幻想だとおもいます。。

ペトロに起こった奇跡の話です。ヘロデ王によって捉えられ、厳重な兵士の監視がつけられました。ところが、逃げることが不可能な状態のなかで天使によって脱出させられたのです。ペトロは、始めそれが現実のことではなく、夢か幻でも見ているのだろうと思っていました。しかし「我に返った」とき、神様がなされたことに気がつきます。現実と幻の間で、ペトロは「我に返る」という、自分を客観的にみたときに真実がわかったことになります。

多摩美術大の文化祭でのイベントのことを聞きました。多摩川で、夜、多摩川の水面に、映写機で多摩川の水面を映すというイベントでした。真実の多摩川の流れがそこにあるのに、いつも見ている水面を投影する。それは幻の姿がそこにあります。しかし、客観的に見るという視点からすると、とても大切な何かを教えています。私たちは真実をみているようでも、じつは幻を投影させて自分の見方でしか物事をみることができないのかも知れません。

ペトロは自分の目や、自分の判断からみてしまい、現実のこととは思えなかったのです。神様が行っておられることを、神様の目で見ない限りそれは幻にみえてしまいます。自分におこる様々なことがらも、神様の視点が必要です。そうやって自分を客観的に見るということが信仰のはじまりだと言えます。

2016年10月27日木曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『待つこと』
「待つ」ということは、いつでも相手がいることです。誰かを待つにせよ。何かを待つにせよ。
 
 竹内敏晴氏が書かれた、「からだがかたることば」という本があります。そのなかに、次のようなことが書かれてありました。「待つということは相手がくるだろうとおもう方へ、全身体、全神経をむけていることで、身体は当然その方へ向いているものである」そういえばデ-トの待ち合わせなどは、来るであろう方ばっかり見ているものですよね。アドヴェントは「待つ」ときです。救いイエス様を心にお迎えする準備をするときです。そうであるならば、全身体、全神経をそこに集中させたいものですが、そうもいきません。全身体、全神経を集中させていたら疲れてきます。ほどほどに忘れずに集中してください。なぜなら、待って待って初めてイエス様にお目にかかったのは素朴な羊飼いでしたから。大切なのは忘れないこと。

2016年10月26日水曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ルカ  4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。

牧師の仕事のひとつに「間に合う」というのがあります。今月ほどそれを考えたことはありません。しかし、どうしても間に合うことができないこともあります。そんなときは、間に合う牧師にその働きを委ねるという道があると思います。谷口恭教先生の臨終に間に合わなかったのですが、そこには後輩の牧師がいてくださいました。牧師も一人で働いているわけではありません。やっぱり神様のチームで働いているのだと実感しました。そして、そこにおられた兄弟姉妹も全員が神様のチームだと教えてくださいました。わたしたちのチームは、神様の働きのなかで「間に合う」ということを大切にしたいと改めて思っています。

イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。

ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。

イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」といった方がおられます。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う」のです。私たちも「間に合う」ことを考えながら、「すぐに」を考えてすごしましょう。

2016年10月25日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『キリストが歴史を知っている』
 11月6日は全聖徒の日です。教会の歴史が長くなりますと、存知あげない方も多くなります。教会の歴史はキリストとの交わりの歴史であり、信仰の継承の歴史でもあります。ですから、私たちがその方々を知る知らないというのではなく、イエス様がこの歴史を知っていてくださることが大切なことです。またそこにこそ、永遠の救いと憩いがあるのです。
 11月は教会の暦のなかでは、一年の終わりの月です。12月からはクリスマスにむけて、新しい年(アドヴェント)に入ります。終末に生きる私たちはこの月に、召天者の信仰を受け継いで、神様の御国のきたらんことをと、「主の祈り」を祈りたいと思います。そして、一瞬一瞬を神様の時として、誠実に生きてゆきたいと思います。
 
 これからだんだんと夜が長くなっていきます。しかし朝は必ずやってくるのです。新しい朝をキリストと共に待ちたいものです。  

2016年10月24日月曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ヨハネ  11:9 昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。

10月は予定を入れ過ぎて大変な状況になっています。震災活動講演も3つあります。どれも大きな講演だけに準備する時間を探しています。ここにきて時間探しをするとは思いませんでした。しかし時間探しは計画的でなければなりません。時間はつくらないとできません。どんな時でも1日は24時間しかありませんので、その中でやりくりしています。

エルサレムの近くベタニアの村にマルタ、マリアそしてラザロが住んでいました。イエス様が愛された家族です。そのラザロが病気になり死んでしまいます。イエス様はラザロが死んだあとに彼らの家を訪問されました。イエス様は、ラザロが死にかけているのを知っていながら、その死を待っていたかのような行動をとっておられます。その後、イエス様はラザロを復活させます。ラザロの奇跡を通して御自分の「復活と命」について教えるためでした。その中で「時間」についても語られています。

朝晩が秋の季節に戻り、普段業務にやっと慣れてきました。朝6時に起床して活動を始めることは同じでも、被災地救援活動では内容がまったく違っていました。一番の違いは、時間の使い方です。被災地では時間があってないような状況(いつ何がおこるかわからない)でしたので、自分の時間管理ができませんでした。教会に戻り、再び1週間の時間管理を始めました。自分で作成したエクセル表で管理いています。目的は空いた時間を捜すこと、造り出すことです。空いた時間こそが自分の時間であり、そこに何をいれるかが大切です。造り出された空き時間こそ、自分を豊かにする時間だと思っています。
 
 イエス様は「昼間は十二時間あるではないか」といわれました。それをどのように用いて行くか。また夜も十二時間あります。この時間が与えられている私たちは賢くその時間を用いることを求められています。時間の使い方、休むこともその用い方の一つです。自分の成長のために時間管理ができればと願っています。

2016年10月23日日曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『どうしてかな』
 
 鹿島和夫氏の「一年一組先生あのね」という子供たちの詩集のなかに、次のようなものがあります。
 『おとうさん』
  おとうさんは
  こめやなのに
  あさパンをたべる
 子供にとって不思議なことはたくさんあります。「どうして、どうして」とよく園児たちにも聞かれます。私たちはいつのまにか「どうして」を忘れているのかもしれません。今日の福音書には心を変える=考えを直す(マタイ21:29 )ということがでてきます。彼は「どうして」心を変えて従うことができたのでしょうか。
 
 自分のことばかりでなく、人のことを考える余裕があったからです。それはもっといえば、神様のことを考える余裕です。

2016年10月22日土曜日

鹿児島教会でワークキャンプをします。
教会整備をおもにおこないます。
宗教改革500年にむけて、聖なる空間へ改革されていきますよ。
お楽しみに!

2016年10月21日金曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

 ロシアのことわざに「神は私たちにクルミを与えるが、それを割ってくれない」というものがあります。神様は私たちに必要なものをご存知です。今日必要な物だけでなく、出会い、試練、やることなど。このことわざは、神様はチャンスをたくさん与えてくださるが、それを発見し、受取り、それを利用する自由を私たちに残しておられるということです。やるか、やらないかは私たち次第です。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 ある保育所の園長先生が、研修会で経営コンサルトの話をきいてきました。園内、職場環境をよくするということがテーマだったようです。話の中で「自分のいいところ探し」ということがありました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これはとても難しいです。7個位はでてきますが・・。それでも多すぎでしょうか。次に家族の誰かをきめて、また20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし、書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」を実行しなさいと教えています。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていく。神様はたくさんのいいところを私に与えてくださっています。それを発見してみたいと思います。

2016年10月20日木曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『救いの取り合い』
 
 幼稚園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれます。それは人間も同じだなということです。
 
 先日もこんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。いまは二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。
 
 これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。しかし、第三者からみれば同じものなのです。
 
 イエス様はたとえ話の中で、「友よわたしはなんら不正はしていない」といわれました(マタイ20:13 )。神様からみれば救いは同じように与えられるものなのに、他人の救いが自分の救いよりよく見えるのはなぜでしょうか。 

2016年10月19日水曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
ローマ 9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

   宮城県にあった大きな避難所には、最高で700名の被災者がおられました。避難所になった施設の館長さんは不眠不休で人々のお世話をされていました。最後の1家族が仮設に移ったのは10月でしたので、その間ずっと支援活動をされてきたのです。正月になり派遣牧師が挨拶にいかれました。「おめでとう」の言葉に、館長さんは「何もおめでたくはない正月だ」といって、自分の23歳の一人息子が津波に流されてまだみつかってないことを話されたそうです。じつは誰もがはじめて聞くことでした。館長さんは自分の使命は最後の1家族が無事に仮設に移るまで見とどけることと言われていました。自分の苦しみ、悲しみはそっと置いておかれたのです。

   パウロは信仰による義を明らかにしています。それによって神様の民としての栄光が約束されることが明らかになったと教えています。しかし、パウロの中にはイスラエルの同朋たちのことで、深い悲しみ、絶え間ない痛みがあるというのです。それは個人的なもののように聞こえますが、そうではありません。神様との関係における事柄についてのことです。

  
被災地支援活動をしている被災者は、誰もが深い悲しみを持っています。その悲しみの表現はいろいろあります。しかし、被災支援を語るときにはその深い悲しみ身を置いたところからしか語れません。見ないようにしたり、無かったことにしたり、誤魔化したり。悲しみを避けて支援活動を続けようとします。しかしそれでは途中で挫折してしまいます。自分の中の本当の痛み苦しみに身を置いたときにでてくる勇気と希望が被災者支援を支えていく力となるのです。

  
パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」といいます。その中で神様の使命に生きることによって、神様の義を明らかにしているのです。深い悲しみ、痛みの中にあっても神様が約束してくださった義によって使命をはたしていくしかないのです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>

2016年10月18日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『悟りとは・・・』
 
 清水寺の大西和尚の本を読んでいましたら、その説法の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟をきめることである」と話しておられました。それを読みつつ、私などとてもだめ、ましてや誰にでもできるわけはないと思いました。
 
 反面、それができるのはクリスチャンにかぎるとも思います。イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)といわれました。これは、自分の十字架(死の道具)を負えということですし、自分の死を負って従えということではないでしょうか。もちろん死んでもよいとの覚悟でこいということです。
 
 それではとてもとてもと思わないでください。クリスチャンにはそれが安心してできるようになっているのですから。なぜならイエス様がいつも共にいてくださり、しかも私の十字架(死)も一緒に担っておられるのですから。

2016年10月17日月曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
   マタイ 4:25 ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
   書店でビジネス書を立ち読みしました。「あなたのお客さんになりたい」という本の扉に次のように書いてありました。「いままでのサービス業は、『お得』ということがサービスでした。やがてそれは『便利』に変わりました。これがスーパーからコンビニへの移行です。これからは何か。それが『ちょっとうれしい』です。あなたがお店へ行ってあの店はよかったと覚えているのは、ちょっとうれしかったからです」。礼拝もまたサービスといいます。神様の福音は変わらないのですが、教会が人々に与えてきた恵み、人々が受け取る平安は、時代によって変わってきたのだと思います。キリスト教ブームといわれた時代がありました。その時は教会が人々のニーズにあっていたのでしょう。ところが、教会はそのときから変化したかといえば、その当時のままかもしれません。伝道の不振というより、時代をつかめないのではないでしょうか。これからの時代は「ちょっとうれしい」だとすれば、それは感動を与えられるかということです。ちょっとした感動を与えられるかということです。   イエス様の宣教活動の様子が記されています。まず最初は「おびただしい病人をいやす」ことでした。この評判を聞きつけて大勢の群衆がイエス様のもとにやってきました。イエス様の宣教の働きは「教え」「福音を宣べ伝え」「いやす」の3点にまとめられています。集まってきた群衆の地域性はかなりオーバーな表現ですが、その評判は絶大なものだったようです。イエス様のファンが増えてゆく様子がわかります。
  
大江教会は新しい方向転換をして3年になります。集会室をカフェにすることを承認し、計画を実行しました。教会が、地域の教会として九州学院へも宣教する教会となるための整備でした。再び地域に開かれ、人が集まる場所になるための計画を立てました。それが「集会室のカフェ化」です。新しい方向転換でした。現代の若者たちは、時間のある時、ちょっとした集まり、仕事をするとき、勉強をする時「カフェ」を利用します。スタバなどはいつも満員です。ここに注目しました。集会室をカフェにすることで教会の門を広げる計画でした。自由に珈琲も飲める。安心してそこに居場所を見つけることができる。そして十字架を置くことによってキリスト教をさりげなくアピールできる。大江教会カフェのファンを増やし、教会の持つ壁をなくすことでした。教会カフェが神様のもとで、安心した居場所としてなる。教会が新しい方向転換で目指していたものはこれでした
  
教会の宣教も、自分の信仰生活も「神様のサービス業」だと思います。イエス様はファンをたくさん持っておられました。私たち牧師も信徒も「あなたから神様のみ言葉を聞きたいと」思われる存在でありたいです。教会の宣教も「大江教会から神様のちょっとうれしいをいただきたい」と思われる宣教をしたいと願います。そこにはノルマ、マニュアルは存在しません。聖書を読み、祈り、奉仕するという原則があるのみです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>

2016年10月15日土曜日

阿久根教会で特別伝道集会です!
ぜひお越しください!

2016年10月14日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『父親似の犬』
 
 ある牧師先生の家に四匹の小犬が生れました。早速見に行きましたがとてもかわいい犬で、一匹ほしいなあと思うくらい。ところが母親犬は四匹を平等に愛し育ててはいないと、その牧師先生は言われるのです。ある一匹だけをよく面倒をみて、ある一匹には全く無関心なんだそうです。残りの二匹にはまあまあとのこと。どうも理由がありそうです。実は、愛されているのは父親似の犬。嫌われているのは自分に似ている犬なんだそうです。どうしてそうなるのかわかりませんが、愛の執念かもしれませんよね。
 
 しかし、人間的な愛の執念にもそこに信仰が与えられる時、救いへと変えられていくことがあります。カナンの女の執念(マタイ15:27 )が、救いを塀の外へともたらしたのです。
 
 そこにはイエス様に支えられた信仰があったことはいうまでもありませんが。

2016年10月13日木曜日

鹿児島ルターくんの朝のみこ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。イエス様と私たちの関係も同じかもしれません。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 真夜中のことでした。午前2時頃にベットに入りました。三女がいつものように隣に寝ていました。ちょっと頭をなでてあげていたら、なんと寝言で「神様いつもありがとうございます。アーメン」とお祈りしたのです。夢でもみているのでしょうが、寝言の中でもお祈りできるって素晴らしいなあと思ってしまいました。この話を家族にしました。すると全員「ご飯を食べている夢を見てたんじゃない」というのです。そう考えれば、毎回の食事時にそれぞれがお祈りすることになっていますので、「神様ありがとう。アーメン」は三女の毎日の祈りでもあるのです。しかし、夢の中でたべる食事でさえもお祈りして感謝できることって素晴らしいと思ったのです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

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2016年10月12日水曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『マンウオッチングする鳥たち』
 
 牧師館のベランダに、夫婦バトがやってくるようになりました。朝は七時ごろやってきて起こしてくれます。ベランダに餌をやりだしたのは、もう二ケ月まえになります。はじめはスズメがやってきました。一羽二羽と増えて、一時は二十羽から三十羽にもなり、バ-ドウオッチングを楽しみました。しかしある時期を境いにして寄りつかなくなったのでした。夫婦バトがきていたので、寄りつけなかったのでしょう。やはり大きさがあるので迫力があります。
 
 毎日こうして楽しんでいたのですが、あるときふとこちらが見られていることに気がつきました。しかも鳥の方がよく人間を観察しているのです。それは、この人間はどのくらいまで近づいてよいか。どんな性格の人間か。いつも何をしているか。どうもそれに応じて行動しているのです。
 
 「マンウオッチングする鳥たちが都会の鳥である」と、最近の本に書いてありました。決して危ないところや不安なところにはいかない。
 
  私たちの教会には今日もたくさんの鳥がきています。 

2016年10月11日火曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。

 

中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。

 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。

 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。

イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う日でありたいものです。

 

2016年10月8日土曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

マルコ 4:3 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません

イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。

野村克也元楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりだと思いました。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かなと。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。一番大切なことはどれくらいそのチームを愛しているかということかもしれません。

イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。

2016年10月7日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『うらをみせ』
 
 うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ    
 
 良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。
 
 死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。
 
 うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。
 
 うらをみせ おもてをみせて すくわるる   ですね。

2016年10月6日木曜日

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
 1コリント  3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

ちょっと前に事ですが、マクドナルドの注文カウンターに60秒の砂時計が置かれていました。どんなサービスでしょうか。これまで、平日半額とか、バリューセット、いろいろ選べるマックチョイスなどがありました。今回は注文したものが60秒以内に出せない場合はポテト無料クーポンをプレゼントするというサービスです。これは、お客さん自身が食べたいものを組み合わせるようになったため、何百通りの組み合わせができます。そのことで商品を出す時間が遅くなり、お客さんの回転率が下がり、売り上げが落ちてきているということのようです。面白い企画だなと思いました。お客さんにとっては「早い」という利点があります。もし遅い場合でも、ポテトで得したという喜びがある。お店にとっては、回転が速くなることで売り上げがあがる。一番大切なことは社員教育・サービス向上になるということです。待たせないサービス訓練です。驚いたのは、一つの企画がサービスする側と受ける側の両方に働くということでした。しかし、よく考えるとこれは共に働くと言う事ではないかなと思いました。

パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。

組織の中で心が落ち込んでいく原因は3つあるといいます。それがひどくなると鬱(うつ)になるそうです。その3つ思いは、1)誰からも好かれたい。2)完璧にしようと思う。3)自分の思い通りになる環境を求める。だそうです。この3つ目がなかなか難しいものです。自分の思い通りの環境に人を合わせることを求めるのです。自分があわせるのではなく、人を自分に合わせようとする。それは、人を無理やり作りかえることです。それができないことに苦しみ落ち込んでいくのです。自分の方がその環境に合わせて、その中で何が出来るかを考える方がよいのですが。

パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。力を合わせて行くということは、自分一人ではできません。お互いが合わせていかねばならないのです。しかしその目的は一つです。「神のために」。この目的がはっきりしてから、「合わせる」ということの意味もはっきりするのです。

2016年10月5日水曜日


クレヨン牧師のミニエッセイ
『たった水一杯でも』
 
 「水不足」といわれ慌てて節水を心掛けています。そのような自分を思うとき、いつも普段の心掛けがいかに大切であるかを考えさせらます。
 
  最近「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。その話をお聞きしてT姉の信仰を見る思いがしました。
 
  神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。そのお心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。「必ず報いを受ける」と主は言われる。
 

2016年10月4日火曜日

 


鹿児島教会は、猫ちゃんが迎えてくれます!
なんと、教会守り猫です!
 
 


鹿児島ルター君の「朝のみ言葉」
マタイ  26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

最近の調査では。ごはんを一人で食べる人が増えてきたといいます。それぞれが生活のリズムをもっており、一緒になることが減ったのでしょう単身赴任のときは食事はひとりでとりました。でも一人はとてもさみしいものです。会話も味の内ですから、食事は一人で食べるよりも、みんなで食べる方がおいしいのです。教会では礼拝後に共に食事をします。それだけでも有意義な教会の交わりです。そこに会話が生れます。その場所を創っていくことも必要と思います。

 イエス様は、人々と食事を共にすることを大切にされました。あるときは罪人とされた人達と。ある時は5千人の人たちと。またある時はファリサイ派や律法学者たちとも食事をされています。この食事のときに奇跡が行われたり、重要な対話がなされたり、福音のみ言葉を語っておられます。十字架におかかりになる前にも、「どうしてもこの食事がしたい」と、過越しの食事をされました。

 我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がするというルールがありました。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈っていました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、2歳でしたので言葉がわかりませんでした。さて、それからしばらくして。夜の食事になり次女から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。食事の時に奇跡は起こるものです。

 イエス様は、弟子たちと十字架のまえの食事でパンをとり「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。それは弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐・過越しの食事)のときでした。この食事は現代の教会でも聖餐式として行われています。イエス様はこのとき、弟子たちと向かい合い大切なことを残されたのです。イエス様はよく食事を共にされていますが、その時を、福音をのべ伝え人々と向かい合う時とされたのです。