2016年10月18日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『悟りとは・・・』
 
 清水寺の大西和尚の本を読んでいましたら、その説法の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟をきめることである」と話しておられました。それを読みつつ、私などとてもだめ、ましてや誰にでもできるわけはないと思いました。
 
 反面、それができるのはクリスチャンにかぎるとも思います。イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)といわれました。これは、自分の十字架(死の道具)を負えということですし、自分の死を負って従えということではないでしょうか。もちろん死んでもよいとの覚悟でこいということです。
 
 それではとてもとてもと思わないでください。クリスチャンにはそれが安心してできるようになっているのですから。なぜならイエス様がいつも共にいてくださり、しかも私の十字架(死)も一緒に担っておられるのですから。