2016年10月2日日曜日


 
聖霊降臨後第20主日 説教         ルカ17章5-10
信仰は増すものか
 

 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているものである」と、どこかで読みました。そこで自分を振り返ってみますと、私の場合はここ数日「野菜」が食べたくてしかたありません。ということは、ビタミン不足なのかなと思います。
 さて野菜については一つの思いでがあります。あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返し「こんなもの食べられるか」と激しく抗議したことを覚えています。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 いまにして思えば、あの頃の母は、共働きで仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 私たちは無意識のうちに、自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうか。なぜ、この本ばっかり読んでいるのか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の一番求めているものだと言えます。そこに本人だけは気が付いてないのです。
 私たちは何をイエス様に求めているのでしょうか。それに気が付かないで生きているのかもしれません。ところが、自分は気が付いてなくても、その生き方にすでに求めているものが現れているのです。

 本日の聖書をみてみましょう。使徒たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と求めています。どうしてこのようなことを求めたのでしょうか。多分本人たちにはわかっていなかったのでしょう。ところが、イエス様は何が彼らの本当の求めであるかを知っておられたのです。
 さて、どうして使徒たちは「信仰を増してください」と求めたのでしょうか。その理由は「赦し」にあります。使徒たちはイエス様が言われるように人を赦すことができないのです。そしてその理由を「信仰が少ないからだ」と考えたのでした。そのような使徒たちの本当の求めに対して、イエス様は言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきく」と。つまり、信仰のせいにしてはいけないよと言われたのです。信仰が真の信仰であるかどうかが問題なのです。
 私たちは「できないこと」を信仰の問題にしてしまいます。しかし実際の問題はそこにはありません。与えられた信仰に気づいていない私たち自身にあるといえます。その与えられた信仰の証しとなるものが「奉仕」だと、イエス様は言われるのです。 一日の野良仕事を終えて、家に「入って来た」僕は、さらに主人の夕食を準備し、給仕をしても、主人からの感謝を見返りとして要求することはできません。つまり、イエス様は「神様からの見返りを要求すること」それは信仰の奉仕ではないといわれているのです。そうするのが当然であると言われています。なぜなら、神様にいただいている恵みを返すことは無理だからです。これ以上何を要求するのかということです。いま生かされていること自体、信仰の奇跡ですよと言われるのです。そのことに感謝するからこそ、与えられた仕事を淡々とこなすことができる奇跡が生まれてくるのです。信仰の奇跡とは大小ではなく、与えられているかないか、それに気づいているか、いないかによるのです。

 さてここに、「その日暮らし」と「一日暮らし」という二つの言葉があります。どちらも同じように聞こえますが、「その日」と「一日」の間には歴然とした差があります。
 私たちにとって「その日ぐらし」といえば、「その日」をただなんとなく、ぼんやりと過ごしてしまう一日のことです。計画性もなく、ただ何事もなく過ごしてしまう一日のことをいいます。むしろ明日のことを思わない暮らし方です。
 ところが、「一日ぐらし」の「一日」というのは、その一日が欠けてしまったら、自分の一生を失ってしまうほどの貴重で大切な「一日」のことを言うのです。自分の人生にとって、それほど大切な一日を空しく過ごすということは、自分がこの世に生まれ出てきたことを、無駄にしようとしていることだと言うのです。つまり、自分の人生の集積としての一日を暮らすということです。
 信仰の問題も同じだといえます。「その信仰暮らし」と「一信仰暮らし」です。与えられた信仰が多い少ないの問題ではありません。信仰は多い少ないではなく、与えられているか、与えられていないかの問題なのです。与えられていれば、その信仰がすべてであるということです。信仰が少ないからできないのではなく、与えられた信仰に気が付かないからできないのです。

 信仰がないから奇跡を起こせないのではありません。信仰があるから無用な奇跡はいらないのです。山を動かしたり、空中に浮いたり、長く水にもぐったりしてもそれが一体何になるのでしょうか。イエス様は、そんなこと考えるより、与えられた仕事を淡々としなさいと言われました。むしろ、野良仕事をして疲れているにもかかわらず、あたえられた仕事を不平もいわずに、淡々とできること自体が信仰のなせる奇跡の業であると言われています。
 私たちはどうでしょうか。いろいろと理由をつけては、神様が命じておられる業をなそうとしません。むしろ「信仰心が薄いから」と理由を並べてしまいます。そんな私たちであっても、イエス様は十字架の恵みによって「信仰」を与え続けておられます。あなたに与えられている「信仰」は、できない「信仰」ではなく、できる「信仰」なのです。だからこそ、この世の人生で何があろうとも、喜びに満ち溢れて生きていくとこができるのです。