2016年10月20日木曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『救いの取り合い』
 
 幼稚園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれます。それは人間も同じだなということです。
 
 先日もこんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。いまは二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。
 
 これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。しかし、第三者からみれば同じものなのです。
 
 イエス様はたとえ話の中で、「友よわたしはなんら不正はしていない」といわれました(マタイ20:13 )。神様からみれば救いは同じように与えられるものなのに、他人の救いが自分の救いよりよく見えるのはなぜでしょうか。