2017年9月23日土曜日

きままな休日・広島でランチ

広島にある
バッケン・モーツアルトのランチ
なかなかボリュームがあって
かなら美味しかったですよ!

2017年9月21日木曜日

『加藤さんの信仰』

クレヨン牧師のミニエッセイ


『加藤さんの信仰』

 「あなたの信仰を語れといわれたら、生れてから死ぬまでの全てを語らねばなるまい」という言葉があります。一人の信仰者が天に召される時、そこには神様が見えてくるものだと思います。
 
 柳井教会の加藤嘉治兄が召天されて一週間がたちました。確かにさみしさもありますが、それ以上に『信仰』とは何かを教えられているようです。加藤さんの告別式を通して、復活の信仰と神様の救いの大きさを示されました。加藤さんの生涯とは何だったのでしょうか。それをはっきり教えられたのは火葬の翌日、お骨を納めにいったときです。火葬場の蓋があけられ、私たちの前に示されたものは、大きな膝の骨と灰になってもなお形を留めている聖書でした。
 
 加藤さんの信仰は『膝の信仰』でした。毎週自転車で教会の礼拝に通われました。そして毎日自転車で法務局に通われました。神様が与えられた職務を確実に果たし、教会の礼拝にて恵みと祝福を受ける。九十歳を越えてなお山を一つこえての道のりでした。信仰の強さと御言葉が確実に残ることを示されました。加藤さんのお墓は直筆で「我が事の終れり。神のみ許で我憩わん」と書かれている。

2017年9月20日水曜日

「宣教は刈り入れ」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「宣教は刈り入れ」

ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。

教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。

イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。

ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。

教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。誰を招き、誰と共に生きていくのか。もういちど宣教について考えてみたいものです。

2017年9月19日火曜日

『おはようの言葉でも』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『おはようの言葉でも』

 NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。
 
 先月から最後の讃美歌に『ちいさなかごに』を歌っています。そのなかに、「『おはよう』とのあいさつも、心込めてかわすなら、その一日おたがいに、喜ばしく過ごすでしょう」とあります。声をかけることは、実はその人に触れることです。たった一言でもいいから、声をかける時に心を込めてみる。それができたらどんなに楽しいだろうと思います。イエス様が復活されたとき、悲しむ婦人たちにむかって言われた言葉は、「おはよう」(マタイ28:9)でした。

2017年9月18日月曜日

「あなたが言っていること」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「あなたが言っていること」

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2017年9月16日土曜日

きままな休日・お好み焼きは広島

お好み焼きと言えば
広島でしょう!
と広島で暮らした娘たちは譲りません。
そうですね~そうしておきましょう。

2017年9月14日木曜日

『ほっといたかて死ぬ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『ほっといたかて死ぬ』

 清水寺には故人となられましたが、大西良慶貫主という方がおられました。誰でも知っている言葉、「美人は三日みたら飽きるが、その他は三日みたら慣れる」だから心を基準に結婚を決断しなさい、といわれたお坊さんです。その良慶貫主が百七歳になったとき、インタビュ-に答えていわれた言葉を思い出します。
 
  「ほっといたかて死によるんやから、死ぬことなんか考えてないの」
 
 死ぬことを考える。これは大切なことだと思います。しかし、良慶貫主が言われたのは、それに捕らわれて何もできなくなってはいけないということです。死に捕らわれることなく、死を考えることができたら幸いです。
 
 そのことを示されたのは、イエス様でした。十字架の傷跡をお見せになって、死を示されたのですが(ヨハネ20:20 )、それは死を通り越して復活したところで示されたのです。死を示しておられるかたが、命を得ておられる。その命を信じるものに与えよといわれるのです。
 
 「ほっといたかて死による」。だからこそ新しい命を考えたいと思います。信じるものになりたいと思います。

2017年9月13日水曜日

「夢中になって」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「夢中になって」

ルカ  19:48 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

「何かに夢中になると免疫力があがる」という話をきいたことがあります。ある研究者がその実験をしたそうです。日頃からプロ野球でひいきのチームをもって夢中になって応援する人を、各チームから10名ずつ選び、試合を観戦して試合後に採血検査をする。これを繰り返し調査したそうです。するとチームの勝ち負けに関係なく、夢中になって応援したファンの免疫力が増しているという結果がでたそうです。つまり、夢中になることで人は免疫力がアップするというのです。

イエス様はエルサレムに入城されたあと、神殿の境内で民衆に教えておられます。この神殿では「宮清め」商人たちを境内から追い出すという厳しいイエス様をみることができます。祭司長や律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺してしまおうと計画しています。しかしできませんでした。なぜか?それは「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」でした。聖書の中で「夢中」とい言葉が使われているのは、ここしかありません。私たちは「夢中になって」イエス様のみ言葉をきいているでしょうか。

ある雑誌に、ラオスでドングリを食べた話が書いてありました。山奥の村にでかけていったとき、夕食に単に茹でたドングリがでたそうです。特に美味しい訳でもなかったけれど、いつのまにかなくなっていたという話です。その作家は続けて書いていました。「もともと人間の食とは、そこにあるものを食べるということ」だと。「そこにあるものを食べる」。それを料理して美味しく食べるのは文化です。しかし、そこにないものを高いお金を出して取り寄せて食べるということは、本来の「食」の在り方だろうかというものでした。たしかに、食についての疑問はたくさんあります。美味しいと思う部分のみを食べ、それ以外は捨ててしまう。賞味期限に惑わされる。本来の食べるということから間違った方向を歩んでいるのかもしれません。そこにある物とは、神様がその人に与えた物ということです。神様は、その人にあった物を与えられる。そのままいただくことの難しさを感じます。神様の愛を素直に受けることで、私が生かされるはずなのに素直に受けられないでいる。本当に何が大切かを考えなければなりません。

民衆が「夢中」になってイエス様のみ言葉聞いている。このイエス様の言葉には力がありますから、夢中になって聞いた民衆が救われるのは当然のことです。命の免疫力をアップしたいなら、イエス様のみ言葉に「夢中」になることです。

2017年9月12日火曜日

『痛いね』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『痛いね』

 ちょっとした不注意から、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。うちのカミさんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ないわよ」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは、娘の華美でした。最近、「痛いね」という言葉を覚えた華美は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。
 
 私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。苦しい時、「今、苦しんでいるのね」と分かってもらえたらどんなにうれしいでしょうか。十字架の意味はそこにあると思います。あなたの痛みがどんな痛みかを知るために、キリストは十字架に掛かってくださったのです。

2017年9月11日月曜日

「良く計算して」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「良く計算して」

ルカ  14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルサレムに行くと幽霊ホテルといわれているものがあります。外国の資金で建てられた高級ホテルになる予定でした。しかし、完成はしたのですが一度もオープンせず、そのまま放置してあるのです。出資会社が倒産したわけでもありません。じつは、そのホテルはデザイン重視で総ガラス張りのホテルだったのです。中近東の砂漠地帯にエルサレムがあることを計算に入れずに建築した結果です。つまり、中で人がくつろぐような温度ではなく、砂漠以上に暑いホテルになってしまったのです。どうしてまず計算して考えなかったのでしょうか。

イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。

牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま54歳と半年なので、ザ~っと計算そても「19787日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の子では「一九0五日」ですが・・・。いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできないものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。

イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生にとって何が大切でしょうか。

2017年9月9日土曜日

気ままな休日・もみじまんじゅう

広島に行ってきました。
お土産はさすがに「もみじまんじゅう」
最近では「生もみじ」が売れてますは、
やっぱり王道でいきましょう!

きままな休日・生もみじ

 

広島に行ってきました。
お土産はさすがに「もみじまんじゅう」
最近では「生もみじ」が売れてますは、
やっぱり王道でいきましょう!

2017年9月7日木曜日

『見知らぬ痛み』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『見知らぬ痛み』
 ラジオを聞いていたら、こんな歌が流れてきました。
 
  「見知らぬ痛みが体をあるきだした」
 
 女性歌手が歌っていたのですが、なぜかピンとくるものがあったのです。どこで打ったか分からないが、あとで痛くなることはよくあります。しかし、その歌を聞きながらピンときたのは、私たちがいままで知ることのできなかった痛みが、体のなかで動き始めたと聞こえたのです。
 
 私たちは自分が一番痛いと思っています。しかし自分の痛みだけでなく、となりにいる人の痛みをどれだけ知っているのかといえば、それが家族の一員であっても知ろうとさえしていないのです。
 
 見知らぬ痛みを感じる。これは、自分の痛みを捨てなければできない。もっといえば、自分だけが痛いという考えを改めるということです。今週は受難週です。キリストの痛みがあなたの体に伝わるでしょうか。その痛みはもちろんあなたのためのキリストの痛みです。

2017年9月6日水曜日

「人の知識をこえた愛を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「人の知識をこえた愛を」

エフェソ 3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。

 「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の姿を刻まれた人としての私がいるだけです。どの視点でみるかで、かなり見え方がちがってくるのです。

 パウロは、エフェソの人々がキリストの愛にしっかり立ち、神様の愛を知る者になるように祈ります。これはパウロの執り成しの祈りでもあります。キリストの十字架の愛を知ることは、人の知識をはるかに超えたものであること。その愛か知り、広さ、永さ、高さ、深さを理解することも大切であると祈ります。

 LWFから救援アドバイザーのマタイさんと食事をしたことがあります。彼にはインドに3名の娘さんがおられるそうです。そのうち、双子の娘さんもおられると聞きました。インドでは娘さんが結婚するとき、娘さんの家族が持参金をたくさん持たせねばならないと教えていただきました。多額の持参金がないと結婚が破断になったり、実家に戻らされたりするとか。娘さんをもつと破産するなとか。しかし、もともとの理由は嫁いでいった先で生活に苦労しないためだそうです。親の娘への愛情がそこにあらわれているのです。どちらから考えるかでかなり違うはなしだと思いました。親心というのでしょうか、それがあるからいまも風習としてのこっているのでしょう。

 パウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と言っています。神様の愛というのは人の知識をはるかに超えています。その愛を知ることが神様の豊かさにあずかることになると言っています。その豊かさにあずかったものは、すべてに満たされていくのです。まずは神様の人の知識を越えた愛をしることです。

2017年9月5日火曜日

『恵みを数える』

クレヨン牧師のミニエッセイ

 『恵みを数える』

 地区青年会と牧師達とが集まり、柳井にてワ-クキャンプが行なわれました。聖卓のペンキ塗りや、床ワックス、礼拝堂の整備がおもな仕事でした。やりながら、ある牧師が、「このような仕事はやればそれだけすぐに結果がでるから楽しいね」といわれました。そうだなと思いつつ、神様がなさる仕事はすぐには結果はでないけれど、確実に結果はでるのだと考えていました。みるみる整備されていく礼拝堂は、やっているほうにも恵みを与えてもらったようです。
 
 今年から徳山教会では、『恵みを数える』ことをはじめました。どんな小さなことでも数えていけば、あるわあるわで、こんなに神様の恵みをいただきながら生活しているのかと驚かされています。そして楽しくなってきます。みなさんもぜひ「一日の恵み」を数えてください。すると、すぐには見えてこない神様の私への関わりが、浮び上がってきます。またそれが確実なものとして喜びに変えられていくのです。
 
 「恵みを数える」。すると明日がくるのが楽しみになります。明日は明日でどんな恵みがいただけるのでしょうか

2017年9月4日月曜日

「つながる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「つながる」

ヨハネ  15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

ある時、他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。

 古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。なにかつながっているという感じがあるのです。

 今日のみ言葉は、イエス様が十字架の出来事前に語られた決別説教のみ言葉です。ぶどうの木と枝のたとえ話から、十字架という緊迫した出来事の中で何が大切かを教えておられます。イエス様は、木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの関係で重要なことは「つながる」ことだと言われました。木はイエス様で、枝は弟子たち・私たちを意味しています。そのつながりの中に神様の命も知ることができます。

 東日本大震災救援活動報告を全国各地の集会に呼ばれておこなっています。九州では、多くの方が参加してくださいます。緊急救援からの1年間をとくにはなしております。私たちの緊急救援は各教会・女性会で、わかめプロジェクトにはじまりました。雑巾、おすそ分け、思い出写真洗いと活動が広がりました。被災地とつながった活動ができたという感想をいただきました。講演後の質問の多くは「これからは何をしたらいいでしょうか。どんな支援が必要でしょうか」というものです。全国の皆さんが被災地の方々とつながっていたいという気持ちを感じました。「まず、祈ってください」と答えました。ルーテル教会としての課題は、救援活動がどのようにつながっていくかだと思います。そのために秋刀魚やあぶり焼きいわしがやってきます。

 イエス様は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。つながっていることの確かさを教えられたのです。被災地の方々と私たちがつながっているということは、私たちをとおして、被災地の方々もイエス様につながっていることになります。そのつながりの中心に祈りがあります。祈りでつながり、み言葉でつながり、忘れないでつながっていくことが大切だと考えています。

2017年9月2日土曜日

気ままな休日・なにもないピラフ

なにもない日
冷蔵庫の中にもなにもないですね。
そんなときは、あるものでピラフですよね。
焼き飯とも言いますが、、、

2017年8月31日木曜日

『旬のものは旬が』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『旬のものは旬が』

 教会のささやかな庭には、いまブロッコリ-とタカナが植えてあります。偉そうにいっても、あわせて五本ですが。大部分の場所は春に備えて休ませているのです。土地を休ませるなどということは最近教えていただいたのですが。
 
 さて野菜を作らせていただいて思うことは、買った方がはるかに安いということです。苗や種はそんなに高くないのに、それに必要となる手間、時間、虫との戦いを考えると溜息がでてきます。しかもよく取れる時にはス-パ-でも、とても安く買えるのですから。それでも作らずにはおれないのはどうしてなのか。いろいろ考えてみると、こころから感謝して食べることができるからだと思います。なんというか、神様が作られたものを食べるという実感。命あるものをいただいているという実感。その命に少しでも参与しているという思いが感謝につながるのです。食卓の野菜から感謝が広がっていくのです。
 
 反面、いま収穫されない野菜が並んでいると、複雑な気持がいたします。旬のものは旬がおいしい。

2017年8月30日水曜日

「清楚感」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「清楚感」

マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。

  かあさんいない落葉がとんでいくばかり

 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。

秋の空やわらなそうな雲の城

 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。

 秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。

 クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。

 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさ清楚を感じます。

2017年8月29日火曜日

『ポロロ~ン』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『ポロロ~ン』

 東京へ久し振りにいってまいりました。しかも、広島から十二時間の道のりをバスに揺られて。明け方の雨の中でみた東京は、初めて上京した時の新鮮な気持を持たせてくれました。しかし、バスの旅は一度で充分です。
 
 今回もまた東京で新しいことにであいました。それは、新宿駅のホ-ムの発車ベル音が琴の音に変わっていたのです。確か去年までは、「ジリリリリ~ン」というやかましいものでした。今回は、「ポロン、ポロロ~ン」という音でなんとものどかな感じなのです。
 
 新宿駅といえば毎日、何百万という人が乗り降りする駅として有名です。しかも緊張した、もっといえばイライラした気配の駅でもありました。そこでは、発車寸前に飛び乗る人もいれば、怪我をする人もあったことでしょう。ケンカなどはよくしてたものです。ところが今回新宿駅にいった時、まったく違った感じを受けました。
 
 このポロロ~ンという音が、その駅を変えてしまったようです。ジリリリ~ンと警告の音をやめて、心に余裕がもてるポロロ~ンという音に変えたことにより、警告しなくてもよくなったのです。心に余裕をもって御言葉を聞きたい。

2017年8月28日月曜日

「光を迎える」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「光を迎える」

 ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。

中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。

 ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。

クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときでだいたい1222日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。

イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

2017年8月26日土曜日

きままな休日・油揚げコロッケ

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   不作だったというじゃがいもをたくさんいただきました。
   ということで定番のコロッケとガレット!芋尽くしです。
   コロッケってほんとうに家庭の味ですよね。
我が家は最近ころもに油揚げを使用しています。
中に詰めてあげるだけ。簡単なんです。
   コロッケに味の素と醤油をぶっかけて食べるのが大好きです。
最高にに合わせな時間ですばい。

2017年8月25日金曜日

2017年8月24日木曜日

『誓約の見直し』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『誓約の見直し』

 教会では、今結婚式の依頼が多くなってきました。いままで結婚式の式文をあまり注意してみませんでしたが、最近いろんなところを見直しはじめました。キリスト教の結婚式では何を大切にしているか、誰でもわかるようにしようとしているのです。その中で一番見直したのは誓約の部分です。次のような誓約もあります。
 
   〇〇さんに、尋ねます。
  問 あなたは〇〇さんを妻としますか。
  答 はい。     
  問 あなたは、あなた自身を彼女に与え
    彼女の夫として、仕えることを誓いますか。
  答 神の助けによって、約束します。

 キリストの生き方は、ご自分を与え仕えることに徹しておられたのではないでしょうか。これが結婚をささえる誓いではないかと思うのです。

2017年8月23日水曜日

「定められています」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。