2017年6月23日金曜日

鹿児島教会がかわりました!

鹿児島教会礼拝堂が変わりました。
聖なる空間プロジェクトです。
ぜひ見に来てください。
明日は10:30~礼拝です!
 


2017年6月22日木曜日

自由研究

クレヨン牧師のミニエッセイ

『自由研究』

 夏休みも終わり、新しい学期を子供たちは迎えていることでしょう。宿題を今頃やっている子供もいるかもしれません。私もそういう子供の一人でした。最近では、「夏休みの友」という宿題だけでなく、自由研究というものがあるとか。子供たちも大変に忙しい休みを送っています。
 
  ある子供さんが、夏休みの自由研究について教えてくれました。それは、「骨にはどんな飲み物が悪いか」という研究です。実際には、いわしの骨をそれぞれの飲み物に漬けておくという実験です。その飲み物とは、「水、ウ-ロン茶、お茶、コ-ラ、スポ-ツドリンク、そしてビ-ル。さて、結果はどうなったでしょう。実はこうなりました。骨がすぐに解けた順から、一・スポ-ツドリンク、二・コ-ラ、三・ビ-ルの順だったそうです。水、ウ-ロン茶、お茶は全然解けなかったとか。
 
  何が悪いのかはわかりませんが、う~んと考え込んでしまいました。神様が与えたもうものは、なんでも恵みとして素晴らしいものです。しかし、そこに人間の欲望が入ると害になってしまう。欲を入れずにそのままにおくことは、反対には全てを捨てることかも。 

2017年6月21日水曜日

道のはじめに

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「道の初めに」

箴言 22:6 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。

箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。

日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。

箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校や、教会教育にあたるものは、すべては神様のみ言葉に立って行うということを求められます。そこに若者を導く知恵があるのです。

2017年6月20日火曜日

竹トンボ

クレヨン牧師のミニエッセイ

『竹とんぼ』

 「作る楽しみ」と「最後までやり通すことの喜び」を知ってもらうことを目標に、「子供大工教室」が行なわれました。幼稚園児から中学生まで小刀を持って、大工さんの指導のもと楽しく過ごしました。
 
 最初に竹とんぼを作りました。といっても私は初めてのことです。みんなも同様に初めてですから、真剣です。口も聞かず、もくもくと削っていました。少々のケガはありましたが、みんな二・三個の「自家製竹とんぼ」ができました。その竹とんぼを飛ばしながらの子供たちの顔は、本当にうれしそうで、しかも満足そうな顔でした。うまく飛ばなくても、作りあげた喜びのほうが大切なひとときでした。
 
 神様はこの世界を造られたとき、「よし」(創世記1:10)とされました。そこでは満足と喜びがいっぱいだったのではないでしょうか。最後まで造りあげること、そして、自分でそれに満足することは大切なことです。
 
 神様はいろんなものを造られました。その満足が私たちと共にあるように祈ります。 

2017年6月19日月曜日

何か一つを

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「何かを一つ」

箴言 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。

箴言の20章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。5節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。

あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。

箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決するには、神様を信頼して今日一歩を踏み出すことなのです。

2017年6月17日土曜日

きままな休日・母のオムレツ

これは大好物
母が作ってくれる、ポテトサラダが包んである
オムレツです。かなら美味しいです。

2017年6月16日金曜日

鹿児島教会納骨堂に

鹿児島教会納骨堂に
ステンドグラスを入れました。
皆さんの休むところは気持ちよく。
換気扇も取り付けて、なかなかオシャレです。

2017年6月15日木曜日

自由研究

クレヨン牧師のミニエッセイ
『自由研究』

 夏休みも終わり、新しい学期を子供たちは迎えていることでしょう。宿題を今頃やっている子供もいるかもしれません。私もそういう子供の一人でした。最近では、「夏休みの友」という宿題だけでなく、自由研究というものがあるとか。子供たちも大変に忙しい休みを送っています。
 
  ある子供さんが、夏休みの自由研究について教えてくれました。それは、「骨にはどんな飲み物が悪いか」という研究です。実際には、いわしの骨をそれぞれの飲み物に漬けておくという実験です。その飲み物とは、「水、ウ-ロン茶、お茶、コ-ラ、スポ-ツドリンク、そしてビ-ル。さて、結果はどうなったでしょう。実はこうなりました。骨がすぐに解けた順から、一・スポ-ツドリンク、二・コ-ラ、三・ビ-ルの順だったそうです。水、ウ-ロン茶、お茶は全然解けなかったとか。
 
  何が悪いのかはわかりませんが、う~んと考え込んでしまいました。神様が与えたもうものは、なんでも恵みとして素晴らしいものです。しかし、そこに人間の欲望が入ると害になってしまう。欲を入れずにそのままにおくことは、反対には全てを捨てることかも。            

2017年6月14日水曜日

主の御旨のみが

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「主の御旨のみが」

箴言 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。

夏の予定でパニックになったことがあります。なんでもOK,OKと引き受けてしまい、後で予定をみてでビックリ。なんとその年の8月は、教会にいる時間は5日しかなかったのです。たとえば、「ミッション系高校の修養会」の講師。それが終わって「インドネシアのバタック教会宣教九十年大会」でインドネシアへ。「名古屋地区伝道修養会」の講師として招かれ。それだけならまだしも、AVACO紙芝居の脚本の執筆、児童説教集「おはなしがいっぱい」の執筆、全国聖書日課執筆と締切がすべて8月でした。計画性のなさからこうなったのかと反省しました。

箴言19章も知恵の薦めが続きます。格言集ですから様々な角度からの教えが示されています。この章の冒頭では「唇の曲がった愚か者」という言葉があります。これは語る言葉が曲がっているということで、言葉の中に嘘があるということです。つまり言葉の中に嘘があるのは、誠実でないということです。神様に対して、隣人に対して誠実さをもって、人は生きて行くべきだと言うのです。

ある時「計画は計画であって、その通り実行されるかは別の問題」と言われました。それを聞いたときは「それじゃ計画しても意味がない」と思いました。またある人からは「無計画という計画もある」と聞いたことがあります。それは不誠実だろうと感じました。完璧な計画を作った所で、それが実現するかどうかは誰にもわからないということは理解できます。すべての計画が狂うときや、うまくいかない時があります。そんな時に教えられることは「いまは神様のなさることをみていよう」ということです。

箴言は「人の心には多くの計らいがある」といいます。誰でも多くの計画をもっています。それは人生計画であったり、家族の生き方計画であったり。また金銭の計画、旅行の計画などもあります。もちろん教会も計画をもっています。そこで箴言があえて教えているのは「主の御旨のみが実現する」ということです。自分勝手な計画をいくら立てても実現はしません。それが主の御旨にかなっているかどうかです。どうすれば主の御旨がわかるか。祈りつつ神様のなさることを見ているしかないかもしれません。しかし、主の御旨にかなうことは必ず実現するのです。

2017年6月13日火曜日

ひとすじ

クレヨン牧師のミニエッセイ
『ひとすじ』
     花       八木重吉 
 花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

 暑い日がつづいています。夏だから仕方のないことですが、やっぱり早く涼しくなって欲しいと思います。そんなとき、牧師室の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。
 
 夏の予定もそろそろ終り、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様を讃美する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。  

2017年6月12日月曜日

口答え

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「口答え」

箴言 18:13 聞き従う前に口答えをする者、無知と恥は彼のため。

久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想しました。さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。

箴言18章は、神様から離反する者に対する忠告からはじまります。神様から離反するとは、自己中心的で周囲から離れて行く者のことです。自己中心的な者、利己的な者が人々の間に争いをもたらすと教えます。集団生活において、自己中心、利己的ということは、神様から離反を意味しています。そこから「口答え」ということが述べられているのです。

ネットで「口答え」を検索していたら次のような記事がありました。「不適切なクレーム対応にお客様がキレた」というものです。それは「野菜が生だ」とクレームを言う客に「いつもこうです」と返答したら、「この店の教育はなってない」と店長を呼びつけて強く叱ったと言う話です。この場合、賢い選択は「指摘のあった料理を作りなおす」ということで、「野菜が生だと」と言っている客は「もっと火を通したものが食べたい」と思っているのだと考える。そしてそれを提供する。ところが、この記事にネットで火がついて「ごね得ニッポン」「過剰サービスに慣れ過ぎ。その負担は自分らバイトにまわってくる」など釈然としない書き込みが多く寄せられたというのです。そちらも一理あるなと思ってしまいました。

箴言は「聞き従う前に口答えをする者」と言っています。まずはその人が何をいっているのか「聞くこと」が大切だと教えています。そして「従う」ということ。この「従う」を間違えてはいけないと思います。神様に従って聞くということが知恵なのです。その視点からみれば、箴言の言葉は神様に聞き従う前にと読めないでしょうか。

2017年6月9日金曜日

鹿児島教会礼拝堂が

鹿児島教会礼拝堂が変わります。
聖餐卓を設置ました。
さらに聖壇を整えております。
ぜひお越しください。

2017年6月8日木曜日

宇宙から見た私たち

くれよン牧師のミニエッセイ

『宇宙からみた私たち』

 教会学校のキャンプ以来、空を見上げることが多くなりました。いままであまり関心は無かったのですが、神様が造られた世界の大きさ、美しさをあらためて知らされた思いです。さっそく天体望遠鏡を覗いては、「ああでもない。こうでもない」とつぶやいています。どこかに生命をもっている星があるかもしれません。宇宙から私たちをみたら、どのようにみえるのでしょうか。太陽も三十光年(一秒間に三十キロすすむ光で三十年かかる)の距離から眺めると、四等星位の暗い星にしか見えません。ですから天の川は、銀河系のなかにある無数の太陽の群れなのです。そんなに太陽があるのに、地球みたいな星がなぜみつからないのでしょうか。それはあまりにも遠すぎて、人間の造った望遠鏡や機械では見ることが不可能なのです。
 
 そのようなスケ-ルの大きさ(人間の知識ではとうてい及びもつかない)を持つ神様の世界。そのことの前では、畏れしかありません。私たちはそれを支配されている方を知っていることだけでも恵みです。

2017年6月7日水曜日

水の一滴から


鹿児島ルター君の朝のみ言葉
 
「水の一滴から」

箴言 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

暑い日がつづいています。夏だから仕方のないことですが、やっぱり早く涼しくなって欲しいと思います。そんなとき、牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。夏の予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。

箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ1516)。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。

小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。

箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。



2017年6月6日火曜日

宇宙から

クレヨン牧師のミニエッセイ

『宇宙からみた私たち』
 教会学校のキャンプ以来、空を見上げることが多くなりました。いままであまり関心は無かったのですが、神様が造られた世界の大きさ、美しさをあらためて知らされた思いです。さっそく天体望遠鏡を覗いては、「ああでもない。こうでもない」とつぶやいています。どこかに生命をもっている星があるかもしれません。宇宙から私たちをみたら、どのようにみえるのでしょうか。太陽も三十光年(一秒間に三十キロすすむ光で三十年かかる)の距離から眺めると、四等星位の暗い星にしか見えません。ですから天の川は、銀河系のなかにある無数の太陽の群れなのです。そんなに太陽があるのに、地球みたいな星がなぜみつからないのでしょうか。それはあまりにも遠すぎて、人間の造った望遠鏡や機械では見ることが不可能なのです。
 
 そのようなスケ-ルの大きさ(人間の知識ではとうてい及びもつかない)を持つ神様の世界。そのことの前では、畏れしかありません。私たちはそれを支配されている方を知っていることだけでも恵みです。

2017年6月5日月曜日

毅然無礼

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

慇懃無礼と応答」

箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。

箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。

私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。

2017年6月3日土曜日

きままな休日・石巻はらこ飯

被災地での支援活動のとき気になっていたお店「湖月亭」。
   そのご何度も石巻を訪れては、このお店の「はらこ飯」をいただいています。
   九州育ちの私にとって鮭はごちそう。しかもイクラまで。
   これが釜飯になっている。お刺身もついて安いんだから。
   それよりも、石巻の風土と人の温かさを感じながら食べるはらこ飯はいつだって最高なんです!
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2017年6月1日木曜日

いのち

クレヨン牧師のミニエッセイ

『いのち』
 「人は誰でも、選ばれて生れてきたんだ」とつくづく思いました。
 
 今回の「子育て講演会」にて、三分の一が終ったことになります。やっぱり何かを続けてやっていくことは喜びでもあります。とくに講師の先生の一つ一つの言葉を聞くとき、新たな感動が生れてくるのです。
 
 今回の講演は、「性教育・いのちにこだわって」と題して、中関小学校の佐伯里英子先生がご奉仕してくださいました。人が生れてくるという感動を通して、いのちという面からの「性」を取り上げてくださいました。講演を聞きながら、「選ばれて生れてきた」という感動を受けたのです。
 
 生れたての女の赤ちゃんには、卵子になる原始卵が約百万個あり、そのうちの一つと、送り込まれる精子の数約四億~五億のうち一つが受精する。それが私になったということです。こんなに多くの可能性のなかから、神様が選んでくださったことは神秘というより神様の奇跡だと思います。
 
 ところで四億という数字はどれくらいかわかりますか。一ミリのグラフ用紙を一辺二十メ-トルの正方形にした大きさになります。命を大切に。

2017年5月31日水曜日

どのフレームで

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「どのフレームで見るか」

箴言14:4 牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。

うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ    

 良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。

箴言144節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。

心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。

箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教えています。ここでも見方を変えることを教えられます。このように考えると、人生における試練や苦しみも、実は神様に出会うためのものであると考えることができます。いま自分に起こっていることを神様の視点というフレームで見る時、いったいどのようにみえてくるのでしょうか。神様の視点は愛というフレームでみるということです。

2017年5月30日火曜日

初せみや

クレヨン牧師のミニエッセイ

『初せみや』
  初せみや絣幾歳水くぐる 」
 六日市集会所の河野姉の句です。もう梅雨もあけ、夏がやってきたような天気がつづいています。今年は梅干しを漬けていますが、なんとか干すというところまできました。しかし、味の方はさっぱり自信がありません。青い空と赤い梅干しが、土用の丑の日が近いことを思わせてくれました。
 
 さて、今年はもうセミの鳴き声をお聞きになりましたか。私は今頃気づきました。このセミもよく聞いてみると、初セミは鳴き方が下手なのだそうです。そして段々うまくなっていき夏本番となる。それはセミだけでなく、うぐいすも、ホトトギスも最初は下手だけれど、段々それらしくなってきて、そのあとは素晴らしい鳴き声になるのだそうです。
 
 だとすれば、私たちも初めは下手な生き方しかできなくても、イエス様に導かれてだんだんうまく生きることができる。うまい生き方とは、いつもニコニコしながら神様に守られて生きることなのです。笑顔を忘れないで。

2017年5月29日月曜日

誰と共に歩くの

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「誰と共に歩くの」

箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。

エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。

箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。

女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。

箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみたいと思います。

2017年5月27日土曜日

きままな休日・ベルリンのカレー

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ベルリンで食べた料理。
   う~ん、チキンカレーでしょう。
   でもカレーでない味がした。クリーム煮なのか。
   それでも美味しいのは間違いない。
ドイツ料理って素朴?いや何と表現していいやら~

2017年5月25日木曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

『慢』
 落語家の志ん生が、次のようなことを書いていました。「うめえとかうまくねえとか、ひとのやっているのを聞いて、そういうことをいうについちゃ、べつにものさしがあるわけじゃありませんが、ひとのはなしイ聞いてみて、『こいつはおれよりまずいな』と思ったらまず自分と同じくらいの芸ですよ。『オレと同じくらいかな』と思うときは向こうの方がちょいと上で、『こいつはおれよりたしかにうまい』と感心したひにゃ、そりゃあもう格段のひらきがあるんですよ」。なるほど。
 
 「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚してる煩悩なのだそうです。自分中心に考えることは、どの宗教にとってもよろしくないことなのでしょう。
 
 自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないでしょうか。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。私たち一人一人の中心がなんであれ、その人を生かしも殺しもするのです。 

2017年5月24日水曜日

思慮深く語る

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2017年5月23日火曜日

選ばれてここに

クレヨン牧師のミニエッセイ
『選ばれてここに』
 ある若い父親が、ドイツ語を学ぶ必要にせまられました。一才の息子はまだ、「マンマ」「ママ」としか言えない。そこで、子供が覚えるスピ-ドで自分も学ぶことにしたそうです。ところが半年たった頃から、息子は爆発的に言葉をしゃべりだした。もう追いつくことはできないのでした。あの二才の子供が覚えるくらい、外国語が覚えられたらと思うのですが。
 
  そこで私が、外国語を覚えるコツを教えましょう。それは、親を選ぶことです。英語圏に生れていたら、英語なんてペラペラだったはずなんです。さて、あるお母さんが子供に「子供は親を選べないのだからね」といわれたそうです。そのお母さんはムッときたのですが、ひと呼吸おいて「あなたが生れるとき、お父さんとお母さんは神様にお祈りしたの。すると神様はあなたを選んでくださったのよ」と落ち着いて話したそうです。
 
 誰でも神様に選ばれて生きているのです。もし違う所に生れていればと考えるよりも、神様に選ばれてここにいると信じて生きていきたい。

2017年5月22日月曜日

正しい行動をとる

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「正しい行動をとる」

箴言 11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。

ここ数年のタイガーマスク現象(「第1号」はクリスマスの朝、群馬県中央児童相談所(前橋市)に届いた。玄関前に、包装紙にくるまれたランドセル10個(計30万円相当)が積まれていた。「伊達直人」という差出人名を聞き、「タイガーマスクでは」と気づいた。それが全国にひろがった)をうけて、精神科医はネットニュースの中で次のようにコメントをしていました。「児童虐待などで子どもに同情している人や、誰かを喜ばせたいと思う人が多いのだろう。素直に行動に移せなかった人がヒーローの名を借り、行動に移せたのかもしれない。ただ、物を置いていくのは一方的。『できることはありますか』と声に出し、自ら動くことで感謝されればより大きな喜びは得られる」と。この現象、人と人が双方向にかかわる動きに発展するかとニュースは問いかけていました。

箴言11章の3節から6節までは「慈善」をテーマに語られます。その「慈善」といっしょに何度も出てくる言葉は「まっすぐ」というものです。聖書では「正しい人」と訳されていますが、これも「まっすぐにする」という言葉です。正しい人は共同体の期待に応えて正しい行動をとる者であり、誠実にそれを実行するのです。共同体の期待に応えることに慈善の意味があります。

ある仮設住宅で「おすそわけプロジェクト」を行いました。「ルーテルおすそわけ」が口コミで広がっていました。第1回目のときは20名位の被災者の方がこられたのですが、ある時7は開始1時間以上前にすでに200名の方が待っておられました。この時「大変なことになった」と思いました。品数が少ないと思ったからです。これではみんなにいきわたりません。それでも計画通り実行しました。やっぱり一つもとることができない人もおられました。申し訳ない気持ちになっている女性会の方々の所に一人のおばあさんがこられました。被災者の方で99歳だそうです。彼女も1時間待ってなにも受け取ることができませんでした。おばあさんは女性会の方々に優しく言われました。「あんたたちは悪くないよ。遠くから物資をもってきてくれたのだから。もらう方も悪い。みんなでわけあってもらえばいきわたる。ひとりがたくさんとったからだよ」と。

東日本大震災から三年半が過ぎました。ルーテル教会も支援活動をしました。被災地での支援部しい配布、心のケアなど。これもまた「できることはありますか」との問いかけからはじまったことでした。神様の導きのもとで「まっすぐ」に行動することは何かを教えられたできごとでした。祈りとみ言葉によって正しい行動は導かれるのです。

2017年5月21日日曜日

阿久根教会に行きま~す!

大江教会・鹿児島教会・阿久根教会は宣教協力をしています。
そこでお互いを訪問して元気をいただくツアーをしております。
今回は阿久根教会!そしてA-Zです。

2017年5月20日土曜日

きままな休日・ウエストのかき揚げ

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   最近のうどん屋さんの特徴は、天ぷらが充実していること。
そして何よりかき揚げの大きさが半端ないこと。
   どこのかき揚げも大きいのです。
私は玉ねぎの天ぷらが大好物なので、かき揚げは大歓迎です。
   ウエストのかき揚げは昔から大きい。しかも海老がたっぷりはいいています。
これをそのまま食べるもよし、うどんに入れてもよし。
   美味しいものはなにやっても美味しいのです!

2017年5月19日金曜日

礼拝が二桁になったよ

鹿児島教会が土曜日に礼拝を初めて1年。
様々なことを乗り越えてきました。
そしてやっと礼拝出席が二桁になりました。
神様に感謝します。みなさんもいらっしゃいませんか?
皆さんをお待ちしています。