2017年11月17日金曜日

いまの鹿児島教会

鹿児島教会が成長していますよ!
ますます聖なる空間になりました。

2017年11月16日木曜日

『感謝する』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『感謝する』

 毎週木曜日は私にとって楽しい日となりました。なぜなら生協の日だからです。この日には前週に頼んでおいた美味しい品物が届くのです。けれど困ったこともしばしばあります。皆さんもあるでしょうか。お味噌が二週続けてきたり、ややもするとスパゲッティイが三キロきたり、お年寄り用オムツがきたりすることが。実は前週に頼むシステムになっているので、何を頼んだかわからなくなってしまうのです。一週間のうちに既にお味噌は頼んだのに、無くなりつつあるとあせってまた頼んでしまう。頼んだことを忘れてまた頼む。
 
 こう考えてみると信仰生活も同じだと思ってしまいます。今日恵みを与えられていても、忘れてまた恵みを与えてと祈る。昨日守られていたことなどすっかり忘れて、今日こそ守ってくださいと神様に不平を述べている。こんなことはよくあります。しかしそれが悪いとはいえません。なぜなら神様の恵みを一々覚えられないのが私たちなのです。にもかかわらず恵みを与えたもう神様。私たちにできることは何かといえば感謝することです。

2017年11月15日水曜日

「み言葉の命を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2017年11月14日火曜日

『風が好き』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『風が好き』

 次女も守られて、少しづつ大きくなり、またよく笑うようにもなりました。先日も散歩に出かけたとき、急にゲラゲラ笑いだしました。どうしたのかと思いながら長女をみると同じようにゲラゲラ笑っていました。親は別におかしくないのになぜか二人だけがとても愉快そうでした。理由はなんと、風が吹いていたからです。どうも『風』が大好きなようです。
 
 それで実験です。次女に息を吹きかけたら笑うか。その結果が面白いのです。フウッ-と息を吹きかけると、一度深く吸い込んで笑うのです。何度やっても同じです。神様が人を造られたのち、鼻から息を吹きかけて生きたものとされたということが聖書に書かれています。(創世記2:7 )風は神様の息であり、聖霊でもあります。子供たちには神様の息がわかるのかもしれません。
 
 神様が吹きかけてくださる聖霊の息を、妨げているのは私たち自身の不信仰かもしれません。風は私たちの周りでいつでも吹いているのです。

2017年11月13日月曜日

「先に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2017年11月11日土曜日

きままな休日・あずまそば

1玉、2玉、3玉同じ値段
でもやっぱ3玉はいけないですね。
そばだからと油断しちゃいけない!

2017年11月9日木曜日

『あたりまえのこと』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『あたりまえのこと』

「只眼横鼻直なるを知るのみ」
 
 道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。
 
 でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。横に眼が並んでいるのは、人間と猿類と猫科だけです。そのなかでの「あるがまま」というときなにかしら考えすぎてしまいます。しかし、そんなことを考えるのが迷いでしょう。
 
 私たちは主にあって一つなるを知るのみ、でまいりましょう。イエス様のことを見つづけて、従ってまいりましょう。イエス様の足跡のみをみて。

2017年11月8日水曜日

「宗教改革記念日に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「宗教改革記念日に」

 ガラテヤ 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 1031日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。

 ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架があるのです。

 私たちは「ねばならない」にとらわれてしまいます。しかし、問題なのは「ねばならない」という義務にとらわれて、神様からの自由を見失ってしまっているということです。私たちはキリストを信じる信仰によって、とらわれから解放されています。「ねばならない」から行いがあるのではなく、神様の愛と自由をいただいているから「そうせずにはおれない」が愛と奉仕の原点です。そこに神様からいただく自由があります。

2017年11月7日火曜日

『笑線』

 
クレヨン牧師のミニエッセイ

『笑線』

 桂文珍著「日本の大学」~この国の若者はこんなんでっせ~という本を読み、大変ためになりました。そのなかで、人間には「涙線」があるが、その人の情報量を知るバロメ-タ-は「笑線」だということが書かれてありました。つまり、同じジョ-クで笑えるか、笑えないかということです。関西大学非常勤講師・桂文珍先生は次のようにいってます。
 
 「この人と結婚しようかなと思う相手とは、メルヘンチックなものとか、涙を誘うものは出来るだけ観ないほうがいいよ。悲しい部分はみんな一緒。悲しいドラマを観て泣いたからといって、ああ、心の優しい、いい子やなあと思ったら、大きな間違いで、後で後悔せんならん。でも笑いは人によって個人差があるから、連れていくのやったら吉本にしなさい。私の落語を聞きなさい。そこで、同じところで同じ様に笑えて、『笑線』のウエ-ブが合う者同志だったら、結婚して幸せになれるよ」と。
 
 パウロが言う「泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ」もまた、単純なことではなく、何か深いものを考えてしまいます。

2017年11月6日月曜日

「ありがとうを返す」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2017年11月2日木曜日

『弱さ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『弱さ』

 少しは涼しくなりました。今年は本当に夏を感じた暑さのある季節でした。雨が少なく、庭に植えてある草木も元気がありませんでした。その暑さの中で、さつき・つつじが何本か枯れてしまいました。やはり根が地についていなかったのでしょう。枯れたさつきもつつじも、とても元気がいいものでした。花もよくつき、来年を楽しみにしていたのです。その中の何本かは生き残ってくれました。そして驚いたことには、残ったものは日頃からあまり太陽があたらない場所のものでした。建物の陰にあって、みるからに弱い感じのする木が生き残ったのです。
 
 先日ある方と話しをしていて、「クリスチャンの弱さがなんだか悲しいですね」と言われました。「弱さ」といっても悪い意味ではありません。権力や力に対するときに、愛を語ると「弱い」と思われるかもしれません。しかしその場合の神にある「弱さ」は本当に人間的な「弱さ」でしょうか。十字架の上のイエス様は確かに「弱い」存在です。権力の前にはなすすべもありません。ありませんが、イエス様の十字架を見上げるとき「弱さ」だけでないものがみえてきます。

2017年11月1日水曜日

「たった一言で」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。

2017年10月31日火曜日

『なまえ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『なまえ』

 久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想したり教えられました。
 
 さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。
 
 多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。
 
 私たちは名前を持っています。同じ様に神様にも名前があります。どうかその名前だけは大切にしてください。その名前とは、イエス・キリストの父です。

2017年10月30日月曜日

「教える人は聞かない?」

鹿児島ルターくんの朝のみ言葉

「教える人は聞かない?」

 マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」

キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

 イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。

 最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。
 イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

2017年10月28日土曜日

きままな休日・どんじゅう

熊本に「どんじゅう」という定食屋さんがあります。
このごはん!大盛りですですが、なnんとこれで700円
素晴らしい!食欲の秋ですね。

2017年10月26日木曜日

『~らしさ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『~らしさ』 

福富護氏の「らしさの心理学」という本は、次の文で始まっています。
 
 「『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい』。みなさん御存知の夏目漱石の『草枕』の一節です。世のなかは理屈どおりに機能しているわけでなく、感情のおもむくままでもない。無理して頑張っても窮屈でしかない。そう考えてみると、『自分らしく』ということがどんなに大変なことかわかる」。この本を読みながら、私たちがよく「~らしく」というけれども本質がみえてないことが多いと気づかされます。教会の前においてあるプランタ-は、この晴天続きで草花が根付きません。しかし水もやらないのに雑草だけはキチンとはえてくる。しかも水をやらないのに枯れない。不思議だなと思います。これも「雑草らしく」ということでしょうか。
 
 神様の前で「私らしく」ありたいと思えば思うほど、違う自分を作り出しそうでいやになります。しかし、神様はちゃんと「あなたらしく」を知っておられるに違いないと確信していいです。

2017年10月25日水曜日

自分のいいとこ20

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

すみません!アップができてませんでした!
 
「自分のいいとこ20」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

2017年10月24日火曜日

アップの再開

 
申し訳ありません。アップのし忘れです。
明日からまた再開しますよろしくお願いします。

2017年10月12日木曜日

『共に悲しむ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『共に悲しむ』

「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」
 
 指紋押捺拒否裁判を担当された弁護士さんの言葉です。一人の人の考えや生き方を変えようとする場合、闘争的になるのはどうしてでしょうか。強い者が正しいという考えがどこかにあるのでしょうか。
 
 校門に挟まれて亡くなった高校生の出来事に、胸が痛くなりました。また逆にそうせざるを得なかった教師にも胸が痛くなります。ニュ-スをみていたら数日後、校門の前で二人の大学生がビラを配りながら叫んでいました。「教師がそこまでして、校門を閉めなければならないような学校にしたのは、君たち生徒一人一人なんだ」と。私たちはどう考えますか。
 
 「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」私たちは責められても責められても、自分を変えようとはしません。しかしそこに共に胸の痛みを感じ、悲しむことがおこったとき人は変えられていくと思います。
 
  私たちが救われているのは、イエス様が一人一人と共に悲しんでくださるからではないでしょうか。

2017年10月11日水曜日

「骨髄まで響く」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2017年10月10日火曜日

『三球三振』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『三球三振』

 母校の地区予選敗退にて、来年春の甲子園は終りました。残すは鹿児島の代表を応援するのみです。
 
  野球といえば少年のあこがれのスポ-ツです。とくに投手になりたいと思う人が多いのではないでしょうか。投手の出来がその試合の大部分を左右するといってもよいでしょう。その投手も最近ではいろんな球種をもっています。ストレ-ト、シュ-ト、カ-ブ、シンカ-、フォ-ク、パ-ムボ-ル、まだまだあります。私などがなげても直球を投げているつもりが、自然と右へ曲がってしまいます。こんなのはナチュラルシュ-トというのでしょうか。しかし野球をみていて一番面白いのは、直球で勝負というものです。
 イエス様の御言葉もいろんな届き方をします。御言葉の球種はその人の心にあわせて飛んでくるのです。私たちが喜びにあふれているときは、応答というバットでホ-ムランをかっとばします。でも苦しいことがあるときには迷いのバットで見逃し三振となるかもしれません。
 どうせ三振するのであれば、御言葉の直球におもいっきり大振りの三球三振といきたいですね。 

2017年10月9日月曜日

「深めていく愛」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2017年10月5日木曜日

『からだが語る』

クレヨン牧師の実のエッセイ
 
『からだが語る』
 
「言葉が沈黙すると、からだが語り始める」竹内敏晴氏の言葉です。人は口からでる言葉と、からだが語る言葉のふたつをもっています。キリストの十字架もからだが語る言葉なのです。
 
  娘も二才になり、六日にはおねえちゃんになりました。今が彼女にとって試練のときみたいです。お母さんがいないさみしさと、赤ちゃんができた複雑な気持とで、言葉にだせないところをからだで語っているようです。泣いてみたり、怒ってみたり、物を口に入れたり出したり。これは必死に事実を飲み込もうとしているのではと思わされます。一番の試練は、「愛は受けるだけではなく、与えるものだ」ということの認識ではないでしょうか。いままで自分が独占していた愛を、今度は自分が妹に与えていくのだという葛藤を、からだで訴えようとしている。
 
 イエス様は口から語る言葉と、それを越えるからだが語る言葉をもっておられます。イエス様の生き方、存在そのものがキリストを語るのです。
 
  私たちもまた自分の存在そのもので、イエス様を語りたい。  

2017年10月4日水曜日

「手伝わせてほしい」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。