2017年12月31日日曜日

毎週土曜日に待ってます!

今年も1年間お世話になりました。
新しい年もよろしくお願いします。
土曜日礼拝は2018年もけいぞくしてまいります。

2017年12月30日土曜日

気ままな休日・熊本駅の駅弁

はじめて熊本駅で駅弁を買いました。
とろ玉にひかれました。半熟卵ですね。牛肉も甘くて美味しかったです。
ただ、冷たいのがね~~~。この弁当は温かくして食べたいです!

2017年12月29日金曜日

クリスマス礼拝が終了!

クリスマスおめでとうございます。
それぞれの教会でクリスマス礼拝が行われました。

2017年12月28日木曜日

『脱線聖書研究』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『脱線聖書研究』

 花粉症とは無縁とばかり思い込んできました。ところが今月になって目はかゆいし、くしゃみはでるし、鼻水は止まらず困っています。どうして突然そうなったのかわかりません。どこからか「三十才になって体質が変わったからよ」と聞こえてきました。こんなところにも年令の壁があるなんて・・・。
 
  さて「聖書を学ぶ会」では、ルカによる福音書を読んでいます。私の聖書研究ですから、脱線研究になってしまいます。しかし脱線の中でいろいろな発見があるから楽しいです。とくに発見したことは、五人いれば五人のイエス様がおられるということです。それぞれに出会いも違うし、関わりも違う。しかしそれが一人のイエス様であることにはかわりありません。
 
  『信仰は一つ』という言葉があります。いろんな考え方があっていい。けれど信仰という恵みにおいては一つであると思います。だからこそ、脱線聖書研究があっていいのだといえます。私はこう思う。いや私はこう聞こえる。そんな意見が飛び交う聖書研究会がいまは楽しみの一つです。

2017年12月27日水曜日

「身でわかる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「身でわかる」

ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる

 ネット朝日に、次のような記事がありました。名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。

ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。

道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる。しかし、これも神様から与えられたものとして、神様と共に歩むならば人生は神様の恵みに湿ることができる。恵みに湿るというか、恵みにしっぽりと包まれることになるのだと。

 イエス様は「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」と言われています。最終的にはいまそこに現れていることでその人の根っこがわかるといわれました。イエス様がいわれる「良い実」とはその人が生きてきた選択による結果です。神様の御心に従った生き方を選択してきたかどうかが実に影響を及ぼします。仕事が出来るだけでなく、何のためにこの仕事をしているか、神様の御心に従っているかどうかを考えて、今日も生きていきましょう。

2017年12月26日火曜日

『リズム』

 クレヨン牧師のミニエッセイ

『リズム』

 教会にて「PTA母親コ-ラス」の打ち上げ会が行なわれました。私が生れて初めて指揮棒を振った、あの究極のコ-ラスのものです。ビデオをみながらカラヤンほどでないにしろ、なかなか上手にやっているのに感心しました。
 
  打ち上げ会には、ずっとコ-ラスの指導をしてくださった音楽の先生もきてくださり、楽しい時を過ごしました。その会である方が、「先生、どうしても歌のなかで拍子が一拍ずれてしまうのですが、どうしてでしょう」と質問されました。すると先生は、「四十才を越えたらしかたありません」と答えられました。人間にはリズムがあり、二十代のリズム、三十代のリズム、四十才を越えるとどうしても一拍遅れるリズムになるそうです。やはり余裕の一拍でしょうか。
 
  信仰にもリズムがあるように思います。あるときはアップテンポで、あるときはスロ-で、またあるときはリズミカルに。しかし忘れてならないのは、どんなときでも神様が、私たちのリズムにあわせてくださるということです。




2017年12月25日月曜日

「聞くだけではなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「聞くだけではなく」

ヤコブ  1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。

聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

2017年12月24日日曜日

2017年12月23日土曜日

きままな休日・天草刺身の舟盛り

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いや~~~刺身はいいですよね。
日本人だな~と思います。
天草の新鮮な刺身を食べて、いざクリスマスです!

2017年12月22日金曜日

クリスマスがやってくる

明日はクリスマス礼拝です。
10:30~キャンドルサービスをいたします。
ご一緒にキャロルを歌いましょう。

2017年12月21日木曜日

『牧師は普段はどうしてる』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『牧師は普段はどうしてる』

 新しくこられた求道者の方から、「牧師さんは普段は何をやっているのですか?」と聞かれました。あらためて聞かれると考えこんでしまいました。何もしていないようで、何でもするのが牧師かもしれません。パウロが「福音のために何でもする」のなかには何でも入るのです。それが福音のためならば。
 
  ラジオでこんな笑い話を聞きました。「ある所に一人の貧しい鍛冶屋がいました。仕事は熱心に休まずしていましたが、働いても働いても豊かになりません。それどころか生活は貧しくなるばかりです。それもそのはず、彼には次から次へと子供が与えられ、八人の子持ちになっていたのです。彼は思いつめ牧師に相談することにしました。『牧師様。私は熱心に働き、ありとあらゆることをやってきました。しかし、ますます貧しくなってきます。このうえ何をすればよいのでしょうか』。牧師は彼にたった一言いいました。『何もしないでいなさい』」
 
  やればやるほどダメになっていくことがあります。これだけやったと思うほどやってないこともあります。何もしないで、何かがおこっているのが神様のやり方かもしれません。

2017年12月20日水曜日

「捨てて信仰を拾う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。

2017年12月19日火曜日

『伸ばそうとしても』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『伸ばそうとしても』

 元広島教会の森勉牧師の話しです。森先生といえばシルバ-グレイの紳士ですが、このまえはちょっと様子が違いました。どこが違うのかじっくりみていますと、なんと髪を伸ばしておられるのでした。まるで仙人のように。
 
  森先生が髪を伸ばしているときは、なにか理由があるときです。京都教会の建築のときもそうでした。今回もなにかあるのではと聞いてみました。すると森先生いわく、「教勢が伸びないので、せめて髪くらい伸ばそうと思って」と笑っておられました。不思議と説得力があるので、関心して聞いていますと、「しかし、伸ばそうと思うと髪も伸びないものだね」とまたまた含蓄のあるお言葉でした。
 
  私はそれを聞いて悟ったのでした。福音の宣教は教勢の伸びが第一目標ではなく、「喜びのおとずれを伝える」ことなのだと。伸ばそう伸ばそうと思えばそればっかり見えてしまいます。しかもぐんぐん伸びることだけを見てしまう。ほんとは確実に少しづつでも伸びているのにそれが見えてないのです。
 
 肩から力を抜いて、福音の宣教をすることができるようになりました。感謝。

2017年12月18日月曜日

「自分の視点だけでなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「自分の視点だけでなく」

フィリピ 24 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

「イソップ物語」の中に次ぎのような話を見つけました。

 「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。

パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。

 ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自分の視点でしかみないことに間違いがおこる。

 パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。自分の視点の転換がおこるとき、より本質に近づいていきます。イエス様だったら、女の子のすべてを知ってぬいぐるみと共に抱きしめてくださると思います。

2017年12月15日金曜日

鹿児島教会の礼拝堂

鹿児島教会の礼拝。来週土曜日午後から、高校のコーラス部が練習場所として使用してくださるとのこと。これで若い人達が聖なる空間でイエス様と出会ってくださる。礼拝案内もできる。なんでも宗教曲を練習されるとか。じゃ礼拝でもね!ははは

2017年12月14日木曜日

『食前の祈り』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『食前の祈り』

 2才の娘がいきなり一人で、「食前の祈り」を始めました。たぶん教会学校のお友達がしているのをみて自分もやりたくなったのでしょう。記念すべき第一回の祈りは、私が六日市にでかけたときだったので、「お父さんはお仕事です。感謝します。ア-メン」だったそうです。亭主元気で留守がいいではなく、たぶんそのなかには無事を祈り、食事を感謝し、一日の守りを感謝しているのだと思い涙がでてきました。親バカというものです。
 さて次のときも「わたしがする」というので聞いていると、「みんな元気です。お父さんも仕事から帰ってます。ア-メン」でした。うれしくなって次もさせますと、「お父さんはお仕事です。え~となんだっけ。げんきです。ア-メン」でした。そろそろおかしくなってきたので、ビデオに録画しておこうとなりました。
 
 さてビデオを設置していざお祈りです。「げんきです。たべたいです。お父さんはビデオを撮っています。ア-メン」でした。神様にはこの祈りが届いたでしょうか。もちろん届いたと確信しています。

2017年12月13日水曜日

「もう一人いる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「もう一人いる」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。

PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。

共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエル」という言葉があります。これは「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスの本当の意味は、神が共にいてくださるということです。

2017年12月12日火曜日

『発想の転換』

クレヨン牧師のミニエッセイ

 『発想の転換』

「発想の転換が求められている」と思います。聖書を読むとき常に新しい気持で御言葉に接するには、「発想の転換」が必要です。いままでとらわれている考えを変えることが大切だといえます。『おしゃべり用・心理ゲ-ム』という本を読んでいますと、面白い自分を発見することができます。自分がいかに発想の固定化をしているかわかりました。
 
  さてその中に次のような問がありました。 『象を冷蔵庫に入れる三つの不可欠な条件とは何ですか?』さて何でしょうか。いろいろ考えてみます。だいたい私などに浮かぶ発想は、冷蔵庫を大きくするとか、空気穴をつけるとか、ホカロンを用意するなどです。答えは「一、冷蔵庫のドアを開ける。二、象を入れる。三、ドアを閉める」です。なんだバカらしいと思うあなたは、発想の転換期が近づいていますよ。
 
 イエス様の御言葉も大層なことではなく、ごく自然に心へ届かなくてはなりません。届かなくしているのは私たちなのです。発想の転換をして御言葉を聞きましょう。

2017年12月11日月曜日

「捨てる・拾う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

2017年12月8日金曜日

アメリカからの金の燭台

今年鹿児島教会の礼拝堂に、アメリカの姉妹教会からプレゼントされました。

2017年12月7日木曜日

『恵みの風邪』

クレヨン牧師のミニエッセイ
『恵みの風邪』

年末の忙しさから開放されたと思ったら、風邪をひいて何年振りかで寝込んでしまいました。
 
 ある方から、「二十代の体と三十代の体は違うので無理をしてはいけません」と暖かい言葉を頂いていたのに、年末年始走り回っていたのが原因でしょう。あらためて自分は三十代になったのだと確認しました。三日間布団につきながら二十代だったらもう起きて動けるのにと、三十代の重みを実感したのでした。
 
 さてそう言っても、神様は年末にたくさんの恵みをくださいました。「釜ケ崎越冬セミナ-」は、私にとっていい経験でした。青年たちと一緒に参加したのですが、それぞれに神様からのチャレンジを頂きました。
 
 「何が私に求められているのか」「イエス様の福音とはいったい何か」と、風邪で寝ながら考えていました。牧師が一日中何もしないでそのことだけを考えるチャンスは多くはありません。風邪をひいたのも神様の恵みだったのです。
 
  布団の中での問いに答えていく一年にしていきたいものです。よろしく。

2017年12月6日水曜日

「非難されないように」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「非難されないように」
2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。
出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。
8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。
ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。
パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。

2017年12月5日火曜日

『短気があるなら』 

クレヨン牧師のミニエッセイ

『短気があるなら』 

 盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。
 
 「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」これからもこの話は続きます。関心がおありでしたらお聞きください。
 
 私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の身姿を刻まれた人としての私がいるだけです。

2017年12月4日月曜日

「受けるだけでなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2017年12月2日土曜日

気ままな休日・阿蘇の恵み

阿蘇も復興してきました。
阿蘇と言えば、やっぱりミルクから。
そして新鮮な野菜。
さらに、雄大な自然もご馳走ですね。
感謝!

2017年12月1日金曜日

鶴がやってきた

今年も出水に鶴がやってきました。
さっそく会いに行ってきました。

2017年11月30日木曜日

『アンパンマンのアイス』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『アンパンマンのアイス』

 長女が二才半の時でした。ものごとをどのくらい理解出来るのか不思議に思うことがあります。
 
  ある日のことでした。アイスクリ-ムが好きなので、その日は朝から「アンパンマンのアイス」と訴えていました。私は華美が風邪をひいていることだし、与えないことにしたのです。ところが諦めず何回も何回も「アンパンマンのアイス」が食べたいと言います。そのつど「ダメ~」の繰り返しでした。誰に似たのかガンコな長女はよる十時まで「アンパンマンのアイス」というのです。いいかげん頭にきて、「そんなに欲しかったら、自分で買いにいきなさい」というと、すんなり「は~い」といって家を出ていきました。どうせ外は雨が降っているし、すぐに泣いて帰ってくるだろうとこっそり影からみていますと、傘をとり、長靴を履いて暗いなかとぼとぼと外へ出ていってしまいました。しかも道路へでて右へいこうか左へいこうかとキョロキョロしています。その後ろ姿を見たとき、おこがましいですが神様の眼がすこしわかったのです。神様も私のことを親の眼で見ていて、手を差し伸べて下さるのだと。
 
 それから私はコンビニに走ったのでした。アイスを買いに。

2017年11月29日水曜日

「種から育つ」

 

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。