2017年2月28日火曜日

雪が少ない

クレヨン牧師のミニエッセイ

『雪がすくない』
 冬という季節なのに、暖かい日が続いています。今年は雪が少ないというより、雪がないのです。私にとっては大変有難いと思っています。なぜかと言えば、雪道を車で走った経験がないために、六日市礼拝の時、雪が降って道路が凍ってしまったらどうしようかと考えていたからです。
 しかし、やれやれとばかり思ってはいけませんでした。先週六日市で「今年は雪がなくて良いですね」と言いましたら、「結構なんですが、畑をしている人にとっては良いとは言えないのです」と教えて下さいました。なぜなら、「雪が降り積もることで畑の害虫が死ぬのですが、今年はそれがないので作物への被害があるのではと心配なのです」ということです。
 神様は私達のことを考えておられる。それは決して個人の我がままを考えてくださるのでなく、もっと大切な命の問題で考えてくださっているのです。私達は自分で生きているのでなく、生かされていることに気づきたいと思います。生かされているということは、命に我がままということではなく、あなたの命の大切さを教えてくれるのです。 

2017年2月27日月曜日

友と呼んでくださる

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「友と呼んでくださる」

 ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ

テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。

 ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。

 日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。

 イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。

2017年2月25日土曜日

気ままな休日

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   阿蘇で青高菜を買ってきました。いつもは母が漬けたものをたべていました。仮設でも漬けられるけど、高菜がないとのこと。
   そうでした従姉妹の畑が被災して高菜を植えられなかったのでした。来年は漬けると張り切っておりましたが。畑の断層をなんとかしなきゃと。
   希望持って待ちます。でも、これは美味しいです。

2017年2月24日金曜日

痛みを負う

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「痛みを負う」

 イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。

中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。

 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。

 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。

イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う教会でありたいものです。

2017年2月23日木曜日

何が見えるのか

クレヨン牧師のミニエッセイ
『何を見るのか』
 ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。
 
  あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。
 
  本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。ペトロ・ヤコブ・ヨハネらは全てを捨てて従うことにより(ルカ5:11)、全てを与えられたのです。あなたが神様のまえで捨て去るものはあなたを捕らえて離さないものです。それはイエス様よりも大切なものですか。
 
 「わたしの家が燃え尽きたとき、わたしは夜空を何にも妨げられずみることができた」と言った人がいます。私たちは何をみなければならないかを見極めるセンスを与えられたいと思います。

2017年2月22日水曜日

中を見たい

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「中を見たい」

 ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。

2017年2月21日火曜日

紫蘇壺


クレヨン牧師のミニエッセイ

紫蘇壷』
 六日市集会所の柴田政子姉が天に召されました。五、七、五の中に人生の総てを詠みながら、しかも妥協せず、深くその奥にあるものへこだわりつづけた生涯でした。遺された一つ一つの句を詠み返してみると、柴田姉のありのままの生涯が浮かんできます。
  爽やかに別れしとて悔いすこし

  激せしはただ一瞬の木の実ごま
  明日のこと明日にまかせてさはやかに
  古日記の余白に心おきてとづ
  ひとり発つ春暁みたつ砂糖壷
  紫蘇壷の母のおもさは誰も継がず     柴田政子『紫蘇壷』より。

2017年2月20日月曜日

自分のものとする

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ルカ 4:6 悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

「偉くなりたいは悪いことではない」という言葉を聴きました。確かに偉くなることはわるいことではないし、偉くなることを目指すのもいいです。しかし、何のために偉くなるのかです。すべてを自分の思い通りにできるから偉くなりたいでは、結局自分がつらくなると思います。偉くなったときには、偉くなったときにしかわからない責任が大きいことを知らないのです。イエス様は仕える偉さということを弟子たちに教えておられました。

本日の聖書は、「悪魔の誘惑」の箇所です。私たちには「人のパンだけで生きるものではない」というイエス様の言葉でも有名です。イエス様は40日40夜の断食の後、悪魔から誘惑を受けられます。しかし、そのすべてを神様のみ言葉によって退けられました。この箇所の誘惑には「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というみ言葉で退けておられます。主なる神様を第一とするということです。「この国々の一切の権力と繁栄」を自分のものにする。これはとても魅力的です。自分で何でもできるからです。しかし、所詮すべてのものは神様から与えられた神様のものです。自分のものになったというのは錯覚だと気が付かねばなりません。

こんな話を読みました。日本のテレビで韓国の方が、カップラーメンのコマーシャルをみた。それは一つのカップラーメンを兄弟で奪い合っているものです。「これは僕のだ」「いや僕のだ」と。そして「それほどおいしいカップラーメン」という文字が映し出されるというものです。

 私たちはこの映像を何気なく見ています。そして、それほどおいしいのかと思います。ところがこれを見た韓国の方は、「なんとまずいカップラーメンだ」と言ったそうです。また、こんなコマーシャルだったら誰も買わないというのです。それでは韓国ではどんなコマーシャルになるのかといえば、まず兄弟が譲り合いをしている映像が写ります。「弟よ食べなさい」「いいえお兄さんが食べて下さい」と。そして、それほどおいしいカップラーメンとなるのだそうです。私たちは、奪い合って食べるほどおいしいと考えます。しかし、奪い合って自分のものにして食べても、後味は悪いのです。むしろ譲り合って一緒に食べた方が、たとえ少量でも格段においしいのではないでしょうか。

悪魔の誘惑は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。」というものでした。私たちはついすべてのものを「自分のもの」としてしまう危険を持っています。その時は自分を神様としてしまっているときなのでしょう。「すべては神様のものである」という視点に立つとき、罪の誘惑を退けるポイントがあるように思います。

2017年2月18日土曜日

きままな休日・ドイツのお弁当

 ドイツの旅行ではじめてお弁当を食べる!
    ドイツのお弁当ってこんなんです。
   いや~ドイツらしいでしょう。
   簡素、簡素、簡素~
   でもこれでいいんだよね。だって毎日食べ過ぎてビール飲みすぎているんだからね。
   とってもいい経験させてもらいました。
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2017年2月17日金曜日

やるべきことがある

クレヨン牧師のミニエッセイ
『やるべきことがある』
 心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは何だとおもわれますか。「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。
 
 はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。人間関係がどうかで、幸不幸が左右されることはよくあります。この点は大切です。そして労働。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。
 
 奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。だからこそ私たちが豊かな心になれるのです。それはお金で解決できる空しい豊かさではなく、確実な手ごたえのある豊かさです。
 
 耳を澄ませてください。イエス様の声が「あなたが必要だ」と聞こえます。あなたが必要なのです。「主がお入り用なのです」(マタイ21:3

2017年2月16日木曜日

種をまく

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

マルコ 4:3 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

「教会の子ども達は幸せだな」と思うことがあります。それは、いつでも神様から与えられている種を確認できるからです。というのも、礼拝の中に子ども達が一緒にいると、知らず知らずにみことばを聞いているのです。

 讃美歌のときに皆さんはよく、子供とともに座っておられます。子育てを終えられた方もおられれば、まだ結婚しておられない方もいます。しかし、全員が一応に子ども達と一緒に讃美をしてくださっているのです。なにげないひとときですが、私には信仰の確認・継承に見えるのです。讃美歌を歌うということは、「私はこのことを信じていますよ」と優しく語りかけておられることと同じです。これこそが、子どもたちに与えられた「神様の種」を確認させているのです。「あなたには神様の種がまかれていますよ。私にも同じ種がまかれているように」という信仰の確認になっているのです。信仰の継承がおこなわれているのです。

 イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。

 地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません。

 イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。

2017年2月15日水曜日

こころの震動

クレヨン牧師のミニエッセイ
『こころの震動』
 五、七、五のなかにすべてを集約させていく俳句。その俳句をつくってみようと考えましたが、やっぱりだめでした。どうしてもとってつけたような言葉になってしまうのです。素直に感じたままを言葉にするのは大変なことだと思います。
 
 「ことばとはこころの震動を伝えるものだ」とある本に書いてありました。「ありがとう」の一言でも、こころの震動を通して伝わるとき、それは感動をもたらすのです。
 
 神様の言葉(ロゴス)として、イエス様はこの世に来てくださいました。神様のこころがどうしても人を救いたいと震動しておられるからでしょう。人の救いのためにイエス様はとことん仕えられます。十字架というご自分の死でさえも徹底的に仕えていかれるのです。このイエス様の震動が人を生かすのです。
 
 言葉を選ぶよりも、こころを伝える姿勢に変わりたいです。俳句とはこころを震動させて伝えることだとわかったのは、この小学生の句に出会ったときです。
 
 天国も もう秋ですか おとうさん   塚原 彩 『ちいさな一茶たち』より。 

2017年2月14日火曜日

目標・ゴール・期間

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

マタイ 10:7 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。

広島教会時代「今年のクリスマスは500人を招こう!」との目標を立てました。その中でも、一度でいいから礼拝堂を、子どもたちで溢れさせたいと夢を持っていました。具体的な目標を出したのです。結果はメサイア160名、オルガン・ミサ127名、クリスマス主日120名、こどもXmas275名、イブ礼拝105名で、全員では787名でした。しかし大切なのはこの787名をどうやってフォローアップしていくかでした。最終の目標は、キリストと出会っていただくことですから、次なる宣教の目標を立てなければなりません。それにはまず祈りから始めました。神様が教会に与えてくださっている使命を祈り求めたのです。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、イエス様は同じ権能を弟子たちに与えられました。その働きはほとんどイエス様の働きと同じです。また、行って人々に宣べ伝えることも「天の国は近づいた」ということであり、これもまたイエス様の教えに基づいています。また派遣するにあたり注意されたことは、的確な指示でした。

少し落ち着いてきたので、時間をみつけて読書をするようになりました。めまぐるしく時間が過ぎていくなかで、何かひとつでも違ったことをしておかねばとおもったからです。しかし活動に入り込んでしまうとそのような時間はなくなってしまいます。今日読んだ本の中にあった言葉です。「オーケストラは、これから演奏しようとする楽曲、つまり目標を知らないメンバーはいない」。宣教活動も一致した目標は何かを常に示す必要があります。具体的数字であればもっと良いと思います。目標とゴールと期間。これが明確にしめされてこそ宣教活動がよりよい報告に進んでいくのです。この3つを教会が示しているかをたえず考えておかねばなりません。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。大きな目標はみ言葉を宣べ伝えることでした。このはっきりとした目標のもとに派遣されたのです。私たちの活動におけるイエス様のみ言葉はなにかを考えつつ今日も被災地に立っています。

2017年2月13日月曜日

素手のままで

クレヨン牧師のミニエッセイ

『素手のままで』
 どこのトイレも奇麗になりました。高速道路のトイレなどは特に目立って奇麗です。花が飾ってあったりして気持がいいものです。いつもトイレを清潔に保つことで交通事故を少なくしているのでしょう。トイレの話でもう一つ、きのうあるデパ-トのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その後ろ姿がとても印象的で、母を思い出しました。
 
 その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。私たちは神様から素手のままで保たれています。神様によって保たれている自分にはなかなか気がつかないものです。どこかで誰かが保っていてくれるのです。
 
 イエス様は神様の前で私たち一人一人のために祈っておられます。これこそが、私たちが保たれているということです。

2017年2月11日土曜日

気ままな休日

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 元祖熊本ラーメンと言われている玉名ラーメンです。
   これが熊本ラーメンのはじまりの味だとききました。
   う~ん。確かにいつも食べるラーメンとは違います。
   スープはトロ~としているし。香りもちょっと違うかな。
   でもこれは博多ラーメンとは違うものですね。美味しい!それが一番です。

2017年2月10日金曜日

カタクリコ

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2017年2月9日木曜日

つながりの中で

クレヨン牧師のミニエッセイ

『つながりの中で』
 小、中学生に手軽に写せるカメラと2本のフィルムを渡して、土曜から日曜にかけて「一日の生活と好きなモノ」を写すように頼んだとします。さてその結果はどうだったか?という実験をした記事が中国新聞にのっていました。
 
 これによると、都市の子供達と農村に住んでいる子供達とでは撮られたモノが違うといわれています。都市の子供達には、自分の部屋のモノが多い。ポスタ-やぬいぐるみ、照明器具や机のまわり、テレビだけを写した子もいたそうです。そして、金網ごし、格子ごしの写真の多いこと。何かに縛られて生きているのでしょうか。思い当る何かはたくさんありますが。
 
 さて農村の子供達の写真には都市の子供達が写していないモノがあります。それは何だと思いますか。多分『自然』と答えられるでしょう。正解ですが、もう一つ大切なモノが写っているいます。それは何でしょう。『人』です。
 
  神様と人とのつながりの中で生きていきたい。 

2017年2月8日水曜日

なかをみたい

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。

2017年2月7日火曜日

これ、ほんもの?

クレヨン牧師のミニエッセイ
『これ、ほんもの?』
 キンモクセイのいい香りが町にあふれています。しかし、この香りは一年中どこでもかぐことができます。しかもあるところで・・・。それはどこか、もうお分かりのことと思います。
 近所の子供が教会の前で、「おかあさん。ここお便所のにおいがする」というのを聞きました。教会の前にはキンモクセイが植えてありました。実は、芳香剤のにおいにはこのキンモクセイが多いのです。しかし、ほんものと偽物の区別がつかなくなってきていることには、恐怖を覚えました。何がほんものか。ほんものとの出会いを無くさないようにしたいです。
 今年は宗教改革500年です。ルタ-はほんものの神様との出会いを通して変えられていきました。そして、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみという確信へと導かれたのです。私たちの教会は、そのルタ-の志を受け継ぐ教会なのです。

2017年2月6日月曜日

見えている案内人

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

マタイ  23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。

イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。

山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。

イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと導くこと大切さを語られました。私たちにとっては、イエス様のみ言葉が、ものの見える案内人として与えられています。今日は何を語っておられるのか、どのように命への道を案内して下さるのかを注意深く聞きとっていきましょう。

2017年2月4日土曜日

気ままな休日

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熊本には「あげたて」という安くて美味しい天ぷら屋さんがあります。
   目の前で天ぷらを揚げてくれます。
    しかも7品で700円。ご飯、みそ汁お代わり自由。
   イカの塩辛、高菜漬けも食べ放題!
この丼は見事でしょ!
   いやいや、このボリュームですよね。
豚の天ぷらと鳥てんぷら。しかも温泉卵。これって最高の組み合わせ。
   どんなもんだい!という感じでしょう!

2017年2月3日金曜日

福音の種

クレヨン牧師のミニエッセイ
『福音のたね、明日はどこまで』
 秋桜の花の季節の時のことです。秋の桜の名前どおり、とても可憐に咲いておりました。秋桜のことですてきなお話をききました。
 
  ある婦人の庭に秋桜が咲いたそうです。一年がたちました。次の年は風下の隣家の前に咲きました。そして一年がたちました。その年はもっと風下の大きな木の根本に咲きました。そしてまた一年たちました。今年はどこで咲いているでしょう。というお話です。秋桜の種は風下へと、その命をつないでいきます。今年みた秋桜が、来年は違うところでその花を咲かせる。しかし、命はつながっているのです。私はこのことに励まされました。私たちが撒いている福音の種イエス(イエス様)は、必ず風(聖霊)にのって運ばれ、その土地で花を咲かせるのです。
 
  今日まいた福音のたね、明日はどこまでいくのやら。ア-メン。

2017年2月2日木曜日

反省は。。。

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

箴言 8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。そしてもっと言うなら「知恵」を働かせないということのようです。マナーも知恵の一部だと言われました。

箴言8章の教えは「知恵」についてです。知恵が人格をもって語りかける形をとり、知恵自体が自己紹介や自己推薦をしています。面白いことに知恵自身が、その働きと成果について紹介していのです。その中でも知恵は、神様が天地創造をされたときに、すでに神様のもとにあったと告げています。

ある遊園地で「反省ザル(猿)」という芸をやっていました。むかし日光猿軍団の中で披露され、テレビで人気がでた芸だったなと思い出しました。あのときのキャッチコピーは「反省はサルでもできる」というものでした。その当時は笑ってみていましたが、よく考える意味が深い言葉でした。形だけの反省なら猿まねにすぎないという意味がこめられていたかもと改めて思ったのです。あの芸をみていた人たちもその事に気がついて笑ってみていたのでしょう。それを自分にあてはめてみることもありました。

箴言は「愚か者は反省することを覚えよ」といいます。また他の箇所では「心の中の板に書き記せ」と命じています。大切なことは反省すること以上に、それを覚え、心の板に書き記すことです。何回も同じ間違いをするのは覚えていないからです。「反省はサルでもできる」が、心の板に書き記し、常に覚えることが反省することの本当の意味なのです。

2017年2月1日水曜日

60分用の砂時計

クレヨン牧師のミニエッセイ
60分用の砂時計』
 アメリカでレストランが客の回転を早め、売り上げを伸ばすために、あることを始めました。それは、テ-ブルの上に60分用の特大砂時計を置いたのです。長居に圧力をかけるためです。店の名も「アワ-・グラス(一時間の砂時計)レストラン」というそうです。私などはメニュ-にラ-メンとか牛どんを加えたらもっといいと思うのですが。なにせ「はやい・やすい・うまい」ですから。
 
 「人間の時間は期限付きの時」(H,W,ヴォルフ)です。それは誕生から死に至るまでの間の、人間が生きる機会であって、人間は確かに死すべき者として造られています。ところが、旧約聖書によれば、人間は死ぬことを「許される」存在です。それが死であって、死ななければならないのではありません。
 
 人はこの世では期限付きの時を持っています。神様が全てを決められるのであれば、私たちはお任せするしかないのです。お任せです。