2017年3月31日金曜日

3.11臨床宗教師会

九州臨床宗教師会
3.11東日本大震災追悼の祈り
宗教宗派を超えて寄り添う祈る集いが行われました。
仏教、神道、キリスト教が共に大江教会礼拝堂で祈りました。
十字架と仏教の法輪がここに一緒にあります。

2017年3月30日木曜日

親業

クレヨン牧師のミニエッセイ

『親業の一歩』
 子供が転んで泣いているとします。あなたならどんな声をかけますか。普通の親だったら、「痛くない、痛くない」というでしょう。それでも泣き止まなかったらどう言いますか。「自分で転んだのでしょう。いいかげんに泣き止まないと怒るよ」というでしょうか。しかしそれでは子供は泣き止まないはずです。なぜなら子供は、痛くて泣いているのですから。それではどうするか。それが「親業」の第一歩です。
 
 この「親業」は、カウンセリングから生れたものです。しかし、カウンセリングと違うのは、そこに「しつけ」という問題があるからです。子供とうまく関係を持ちつつ「しつけ」をしていく。「親業」を通して親子関係がうまくいっている家庭の多いことは、いうまでもありません。さて、子供が転んで泣いているとします。「親業」を受けた方は何というでしょうか。「転んで痛かったのね」です。子供は転んで痛かったと受け止めて欲しいのです。私たちも考えてみれば誰かに受け止められたいはずです。
 
  神様もまずはあなたを受容しておられるのです。

2017年3月29日水曜日

ユーモアが生かすこと

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「ユーモアが生かすこと」

ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか

野村克也楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりですね。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かな。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。

本日の清書は、復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度もよんでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。また神様のユーモアがあるように思います。先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。

会議でいつも天国ジョークを話される方がおられます。ある教派の総主事なのですが。その話をきっかけに場がなごみ、会議がスムースにいくことが多いように思います。先日のジョークはこれでした。「ある教会に若いカップルが訪れ、結婚式の申し込みをしました。しかし、結婚式の前日に事故で天国に召されてしまったのです。二人は天国の門番であるペトロに『地上では明日が結婚式でした。天国ではめとることも嫁ぐこともないと聖書に書いてあるので、天国に入る前にここで結婚式をあげさせてください』と願いました。ペトロも2人のことを思い了解しました。ペトロは『どこの教会で結婚式をするつもりだったか』と聞きました。『ルーテル教会です』(どこの教会でもいい)とこたえました。ペトロは天国の中にいるルーテル教会の牧師をここに連れてくる約束をし、探しにいきました。しかし長い時間か帰ってきませんでした。かなりたったころペトロは門のところにきていいました。『大変残念ですが、ここに牧師はひとりもいない』と答えましたとさ」 。一つのユーモアが場を和ませます。

イエス様の大きさは、計り知ることができません。その大きさはペトロに「愛しているか」というみ言葉に集約されているように思います。その大きさに触れたペトロは「悲しくなった」のです。こんなに自分を愛しておられる方がいてくださるという胸を打たれる悲しさだったのでしょう。

2017年3月28日火曜日

神に愛されようとして

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
『神に愛されようとして』
 カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。 「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。いろいろと思いめぐらせてください。思いめぐらせていくうちに、私たちが勝手に抱いている神様は、なんと小さい神様だったかが分かってきます。
 
 私たちは神様を抱くのではなく、神様から抱かれているのです。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。この私をありのまま抱いてくださることは。
 
 神様のスケ-ルの絶大さを教えられる季節、それがイ-スタ-です。復活されたイエス様は、今日も私たちを包み込んでおられます。

2017年3月27日月曜日

手には愛が宿る

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「手には愛が宿る」

イザヤ25:10 主の御手はこの山の上にある。

上前淳一郎氏の『読むクスリ』の中で、「若者の食事が洋食にかたよりすぎているのは、母親に原因がある」と書いてありました。すなわち、「オカアサンヤスメ」だそうです。なんだそれはと思う方へ。オムレツ、カレ-ライス、アイスクリ-ム、サンドイッチ、ヤキメシ、スパゲッティ、メダマヤキ。どれもインスタントでできる手抜き料理で、子供が喜ぶものだそうです。もうひとつ、「ハハキトク」といのもあります。ハンバ-グ、ハムエッグ、ギョウザ、ト-スト、クリ-ムス-プ。これはなぜいけないと思いますか。答えは噛まなくても飲み込めるものばかりだということです。それで顎の力が弱い若者が増えたのだそうです。皮肉なことにこの現象を発見したのはお母さんたち自身だったのですが。ある料理家はこれを手抜き料理といっていました。

救いを待ち望んでいた民に預言ざれた言葉の一つです。「御手はこの山の上に」。神様がここにいて守ってくださる。神様はここにおられるという確信があります。「御手」という言葉にひかれます。私たちにも手が与えられているからです。神様の御手とわたしの手。なにか不思議なつながりをいつも感じています。

ある看護婦さんがおられました。末期医療の病室で、反応がわずかしかない患者さんの体を毎日拭いておられました。いつもの仕事なので何も考えずに。しかしふと自分の母のことを思い出したそうです。母が末期病棟にいたとき、自分は同じように機械的にはできなかった。私の大切な人がここに生きていると思って体を拭いていたことを思い出したそうです。それから、すべての患者さんを母と思い、接してこられたそうです。ある日一人の患者さんが感謝をのべられた言葉は、「あなたの手には愛がある」でした。

私たちはここで仕事をします。機械的に仕事をするために神様から集められているわけではありません。神様から呼び集められた私たちの仕事は「この手に神様の愛が宿る」仕事です。今日も手を眺めるときがあれば、この手に神様の愛が宿っていることをおぼえましょう。

2017年3月25日土曜日

きままな休日・2種類のカレー

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   1皿で2度おいしい!実は右がパキスタンカレー、左がスリランカカレーです。
   YMCAのユースの集いでご馳走になりました。どちらも特徴のあるカレーでした。
なるほどカレーの文化なんだ。
   ちなみに、具はチキンとシーフードでした。さすがに豚はなかったですね。

2017年3月23日木曜日

つくしの苦さに

クレヨン牧師のミニエッセイ
『つくしのほろにがさに春』

 教会の裏に春がきているのを、教えていただきました。なんと「つくし」が辺り一面にでていたのです。さっそく娘とつくしを摘み、卵とじやおひたしにしていただきました。なんともいえないほろにがさに、春の足音を聞いた気分です。
 
 教会の裏は、なんとなく安心できるところです。いまじゃがいもを植えていますが、やっぱり太陽がよく当たるところから、芽をだしています。ぐんぐん伸びて収穫が楽しみです。一方、運悪く太陽が当たらない方は、まだ小さな芽を地面にちょんとだした程度です。しかし、となりのよく伸びているじゃがいもと自分を比べて落ち込むでもなく、確実に芽をだしています。その様子を見て、「そうだマイペ-スでいけばよい、私はちゃんと見ているよ」と声をかけています。いずれにせよ、実をつけてくれると信じているからです。また実をつけるように神様から造られているのです。じゃがいもはとなりをみてあせりません。落ち込みません。どんな境遇でも自分は自分。「神様が造られた私」と訴えているみたいです。
 
  神様の言葉も与えられたあなたのペ-スで聞いてください。 

2017年3月22日水曜日

アイデアで乗り切る

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「アイデアで乗り切る」

 マタイ7:28 群衆はその教えに非常に驚いた

 何を話そうかとさんざん悩んだあげく、とうとう時間切れになってしまいました。仕方ないのでイソップの寓話を読んでいましたら、有名な「かにの親子」という物語に改めてはっとしました。その物語は、皆さんもよくご存知だとおもいますが、かにのお母さんがその子に、「横にはうものではありませんよ。またわき腹をじめじめした岩にこすりつけてはいけませんよ」といいました。子どもは、「そう教えてくださるお母さんがまっすぐに歩いてください。私はそれを見てその通りにします」といいました。久し振りで読むとなかなかのものです。私たちはあまり自分をみませんし、していることがどう見えているのかわかりません。イエス様は「我に従え」といわれます。イエス様に従う時、そこには十字架が見えてきます。すると私たちの救いが見えてきます。

イエス様のたとえ話を読んでいると、アイデアに満ちていることがわかります。種をつかったり、からしだねの話をしたり。そのときにあった話をされているようにおもいます。しかも具体的なのでわかりやすかったのでしょう。しかし、聞く側に問題があると大変奇妙で、難しい話になってしまいます。

 先週、犬のトレーナーの話を聞きました。犬のしつけを簡単に行う方法を話してくれたのですが、ポイントは「アイデア」と言われました。犬がどうやったら思うような体制にできるかを人間がアイデアをだすことという話だったのです。 つまり、「伏せ」を教えるのに、上から押さえつけたり、叱ったりしては絶対いけない。無理やりやらせるのはいつまでたってもできない。それではどうするか。犬が伏せの体制を自然ととれるようなアイデアを出せばいいというのです。つまり、まず人がかがんで足をだし、その空間をとおらせれば自然と伏せの体制になる。そのときにご褒美をあげる。何回かするうちに伏せができるようになるのです。犬も楽しいことなのですぐに覚えるというのです。

本日の聖書には「群衆はその教えに非常に驚いた」とあります。イエス様の教えもアイデアが満ちています。なにかにぶつかったとき、苦しいときアイデアで乗り切ることができることって多いものです。働きの中でもそれぞれがアイデアをだして楽しく働きましょう。

2017年3月21日火曜日

老木の

クレヨン牧師のミニエッセイ
『老木の想いにつながって』

 紅梅のつぼみは飛天のイヤリング六日市集会所の村上姉にお聞きした句です。姉のお宅の紅梅が、月の明りで照らし出されるさまを拝見しました。やはり、神様の創造された世界は美しいと感動しました。とくに姉のお宅の紅梅は老木にもかかわらず、その命を新しく生れてくるつぼみに注いでいる。その姿を拝見しながら、ああこれが生きるということだなと思いました。
 
 私たちの命はつながりをもった命です。おおくの命につながり、その命の想いや願いをいま受け継いでいる。そしてこれからも受け継いでいくのです。老木の想いにつながっているからこそ、新しいつぼみが美しくみえるのです。
 
 神様にとってかけがえのない命だからこそ、受け継いでいかねばなりません。そして、かけがえのない命の想いだからこそ、受け継いでほしいと願います。わたしのありのままを通して、信仰を子供たちに伝えていきたい。 

2017年3月20日月曜日

キリストに結ばれて


鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「キリストに結ばれて知恵」

 
2テモテ  3:15 自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

バスを待っていたときのことでした。お母さんらしい人が子供に、「脳のシワが多いほど頭がいいのよ。うんと勉強して、シワをふやしなさい」と言いました。すると子供は、「それじゃお母さんは、顔で考えているんだね」と返したのです。横にいて驚かさせられました。「頭がいい」という言葉をよく聞きます。いまでは勉強がよくできることをいうのでしょうが、私などは「賢い」といわれたいです。この「賢い」とうのは聖書では心の問題としてでてきます。つまり、人の賢さは心から出てくるものではないでしょうか。  

パウロはテモテへの最後の言葉を残しています。テモテがすべての点でパウロに忠実に従ってきたことを改めて強調しているのです。その最後の言葉の中で「キリストに結ばれて」という表現があります。キリストと私たちを結んでいるのは「自分が幼い日から聖書に親しんできた」そのことによるというのです。

ある教会では、宣教百年の記念事業として「教会員全員が聖書通読をする」という計画を立てています。簡単に聖書通読といっても、いざやろうと思っても無理です。聖書通読の基本は「毎日読む」です。この毎日読むことが続かない。そして次に大切なのは集中することです。なぜなら読みながら別のことを考えてしまうからです。字を追ってはいますが、何を読んでいるかわからなくなります。最後は祈りです。御言葉を受けとる祈りをして心を準備するのです。そうやってはじめて「キリストに結ばれた」聖書通読ができます。

パウロは「聖書は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」。と告げています。このパウロの言葉は真実です。聖書を毎日よむとき、毎日イエス様と出会い。毎日救いに導く知恵を与えられます。このような恵みをいただいていることが「キリストと結ばれて」いることです。教会生活の基本は聖書を読むことだと言えます。

2017年3月18日土曜日

きままな休日・黒豚とんかつ

気ままな休日
鹿児島といえば黒豚とんかつでしょ!
大江教会宣教ツアーの皆様がみんなでトンカツを食べました。
さすがに美味しいですよ。柔らかいし、サクサクもっちりです。
ぜひ皆さんも、まず礼拝に出てそれからトンカツへ!

2017年3月17日金曜日

礼拝が10倍に

大江教会からの宣教ツアーを迎え
礼拝がいつもの10倍に!
いいですね!またやってきますよ!大江教会宣教ツアー!

2017年3月16日木曜日

静寂をまもる忍耐

クレヨン牧師のミニエッセイ
『静寂をまもる忍耐』
 ジュ-クボックスが流行した時代がありました。お金を入れると、二曲自分の好きな曲が聞けました。あの頃は騒音公害といわれもせず楽しまれていましたが、最近ではいろんな騒音に悩まされている方も多いそうです。音を出している自分は気持よくても、聞くという立場では我慢できないこともあります。アメリカのジュ-クボックスには、何百という曲目ボタンのほかに、「Silence 」(沈黙)というボタンがあるそうです。一曲分の静寂が買えるというわけです。最近、静寂を持ったことがありますか。私たちは人工的な音から離れることが出来ないことに気づきます。たとえば、どこへいっても車の音がする。時計の音もする。冷蔵庫もします。そんな中で静寂をもつことは忍耐のいることかもしれません。
 
 考えてみると、静寂は神様の与えられた恵みではないでしょうか。神様とゆっくり対話できるチャンスなのです。イエス様も静寂を求めておられます(ルカ5:16)。
 
 受難節の一日、ひとときの静寂を十字架の語ることに耳を傾け、全身を集中したいものです。    

2017年3月15日水曜日

心遣い

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

フィリピ 4:10 あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。

お菓子を食べていたら、煎餅袋の裏に『日本食の礼儀』というものが書いてありました。茶碗の持ち方や、お箸の置き方、目の置きどころなど詳しく書いてあるのです。私は食前・食中・食後の箸の置き方など初めて知りました。また箸の使い方の悪い例はたくさんあって驚きました。

 お箸をなめるのは「ねぶり箸」、同じお菜を続けて食べる「移り箸」、なにを食べようかうろうろするのは「迷い箸」、遠くのお菜に差し出すのは「及び箸」、吸い物のお椀の中に実を探すのは「探り箸」、お料理を箸で突く「突き箸」、お茶碗の中で御飯をかためる「かため箸」。これはみんなやってはいけないことなのです。あらためていわれると、この礼儀は作った方への感謝から出てきているように思えます。食べる側の心遣いかもしれません。

フィリピの信徒への手紙は、パウロが教会からの贈り物にたいする感謝の言葉をしたためた手紙です。この中で「心遣い」ということばがあります。聖書の中に「心遣い」という言葉はあまりありません。もしかするとこの箇所だけかもしれません。この「心遣い」とは何を意味するのでしょうか。パウロは「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」といいます。苦難を共にしてくれたということに対して「心遣い」と言っています。本当に苦しい時、共にいて、共にその痛みを負ってくれたことを「心遣い」と言っています。

テレビで葬儀屋さんの特集をしていました。その中で、ある社長さんの言葉に感銘を受けました。その言葉は「結婚式に必要なものは気遣いでよい。しかし、葬儀に必要なものは心遣いです」というものです。この「気遣い」と「心遣い」の違いが私たちにはわかっているかと問われているようでした。その葬儀屋さんの映像をみていると、出棺のとき喪主の奥様に一つの紙袋を渡していました。その中にはおにぎりが3個と「お疲れがでませんように」と手紙が添えてありました。「心遣い」とはこのようなものかと心を打たれました。わたしたちの教会も「心遣い」を大切にしていきたいと思います。教会生活の中でおこる出来事の中に、ぜひ「主にある心遣い」を持ちたいと願います。

パウロは苦難を共にしてくれたことを「心遣い」といいました。その人と共に歩むとき、その苦しみを共に受け取ることで「心遣い」ができるのです。そのようなホスピタリティを教会はもとめられています。それができる教会にあるために、今日も御言葉を聞き、祈り、仕えてまいりましょう。

2017年3月14日火曜日

対話が不足

クレヨン牧師のミニエッセイ
『対話が不足です』
 ある保険会社が主婦三八00人に対して、アンケ-ト調査をしました。それによると、夫婦の一日の平均会話時間は一時間四五分。夫婦喧嘩は月一回三二%、週一回一二%だといいます。ほかには、「夫に『愛している』といわれてますか?」という質問にたいして、「ここ数年いわれたことがない」四七%、「一度もない」二六%だそうです。毎日「愛している」といわれても困ってしまいますが、なるほど会話不足というより対話不足という感じがします。     「祈りは神様との対話」とよくいわれます。一日の出来事を感謝しつつ、喜びの時には弾んで、うまくいかない時にはありのままに、悲しいときには泣きながら、対話できたらいいなと思います。対話は話しかけることから始まります。その話しかけをイエス様は、「父よ」(ルカ11:2)と呼びなさいと教えられました。「お父さん聞いて聞いて」と、子供がいいます。そのことをイエス様は教えてくださったのです。天の父は聞いてくださる神様です。そして聞きながら包み込んでくださるのです。「そうか、そうか、わかったよ」と。

2017年3月13日月曜日

愛がなければ

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

1コリント 13:2 預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

「自分はなんでも持っている」と言う人がいました。何でも持っているなら幸せですねと答えました。すると、物はなんでも持っているし、これ以上いらない。しかし、本当に必要な物を持っているのか疑問だというのです。特に何不自由なく生活できる財産はあるけれど、さみしいという相談でした。イエス様は「受けるより与える者は幸い」と教えてくださいました。たくさんの物を、人々に分け与えた時、はじめて本当に必要な物が見つかるかもしれません。全てを与えつくして何が残るか。残ったものが、神様から与えられた確かな恵みだと言えます。

本日の聖書は、新約聖書の中でも有名な「愛の賛歌」の1節です。パウロはコリントの人々に、「最高の道を教えます」と言っています。その冒頭に「愛がなければ一切は無に等しい」というのです。愛がなければ一切は空しく、何の価値もなく、無益であるとまで言っています。しかしその「愛」は「神の愛」であることが引き続き語られていきます。私たちは「愛」と言うとき、自分の中にそれを見つけようとします。しかし、私たちの中に見つけようとしてもみつかりません。「愛」は神様のもの。神様か毎日与えられるものだからです。その愛を自分の中に留めておくことのむずかしさを思います。

出張などでビジネスホテルにとまります。最近ではいろいろなタイプのホテルがあります。泊る方が自分の目的や状況によって選ぶことができます。泊るだけでいいと思えば、それなりのサービスで値段が安いほうがいいです。またゆっくりしたいと思えば、少し金額はあがってもきめ細やかなサービスがあった方がうれしいものです。しかし、どのホテルも宿泊客の確保に必死なのだなと思います。最近ではサービスという点では変わりないからです。それではどこでホテルを判断するか。それはフロントの印象です。先週宿泊したホテルのフロントは最初から「注意事項のみ」の説明でした。挨拶も、気持もなく、ここには2度とくることはないかなと思いました。言葉の中に心を見つけられなかったからです。

パウロは「愛がなければ、無に等しい」と教えています。どんなに賜物があっても、才能があっても、大切なことは中心に何があるかです。パウロは「愛」といいます。しかしこの「愛」は神様の愛であるアガペーです。すべては神様が中心になければ無に等しいというのです。

2017年3月11日土曜日

きままな休日

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   真力のカレーうどん。
   ここはうどんの定食屋さんなんですが(夜は居酒屋になる)、食べるならカレーうどんに決定!
   色々なスパイスがつかってあり、香りが豊かです。カレーうどんとは、奥深い食べ物ですね。

2017年3月10日金曜日

元気になって


鹿児島教会も元気です!
鹿児島教会が少しずつ元気になってきました。先週8名、今週10名!でした。嬉しい限りです。さらに大江教会宣教ツアーもあり!元気をみんなで分け合います。

2017年3月9日木曜日

右脳と左脳

クレヨン牧師のミニエッセイ

『右脳と左脳』
 私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。
 
 信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なんだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。 

2017年3月7日火曜日

鏡の前で思う

クレヨン牧師のミニエッセイ
『鏡の前で思う』

 鏡を眺めながら考えてしまいました。鏡には左右が逆に映るのに、なぜ上下は逆に映らないのだろうかと。ヒマといえばヒマなんですが、毎朝鏡をみていてふと考えたのです。気になると考える質なので、「ああでもない、こうでもない」と思いめぐらせてみました。そして結論がやっとでました。これは発想の転換の問題だと。
 
  たぶんこうです。鏡は『左右が逆なのでなく、前後が逆に映る』のです。ですから上下はそのまま映ることになる。間違いだったら教えてください。さて私たちの信仰生活においても、発想の転換が必要な時があります。信じるというのが信仰の基本と思われますが、信じさせてくださることを受け取ることが信仰の基本です。なぜなら、私たちの意志にかかわらず、神様は恵みを与えてくださるのです。それを感謝して受け取ることに信仰の基本があるわけです。
 
  人間中心に信仰を考えていくと、たくさんの矛盾がでてきます。そこで発想の転換をしてみましょう。ルタ-がこれぞ信仰者の祈りとしたものは、「神様、不信仰な私をゆるしてください」です。       

2017年3月6日月曜日

完璧・正しさ・おまかせ

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「完璧・正しい・おまかせ」

マタイ119 夫ヨセフは正しい人であった

クリスマスの出来事にしか出てこないのが、マリアの夫ヨセフです。仕事は大工でした。それ以外のことはまったくわかりません。しかし聖書は「正しい人であった」と述べています。当時、婚約した女性は妻とほぼ同じ法的責任がありました。ヨセフが律法を守るのであれば、マリアは石打ちの刑でした。彼はマリアを守るために婚約解消をしようと思ったのです。彼の正しさは律法において完璧であるという正しさではなく、神様の前に正しい人でした。

アメリカで看護師として働く信徒さんに会いました。病院にはいろいろな国の方がこられるそうです。その患者さんの中で、一番扱いにくい患者さんは「完璧主義」を持っている宗教の女性信者だそうです。一番扱いやすいのは、その宗教の男性信者だというのです。つまり奥様の完璧主義に付き合っている夫は常に相手のことを考えるからということでした。 こうあらねばならないという信仰は、やはりどこかでうまくいかなくなると思います。自分が中心になっていく危険をもっているのです。

クリスマスの記事の中で、夫ヨセフは「正しい人であった」とあります。彼は律法に対して完璧な人ではありませんでした。神様のもとで、やるべきことをきちんとする信仰者だった。そして最後は神様にお任せすることができる信仰ゆえに「正しい人」と呼ばれたのでしょう。私たちに与えられている働きも、完璧ではなく、正しく行っていきましょう。やることはきちんとして、最後は神様にお任せするという仕事の仕方を求めています。私たちは完璧主義ではなく、神様の働きを正しく行っていく責任をまかせられています。

2017年3月4日土曜日

きままな休日・牧師の弁当

14440711_10207488101462150_1020282590122411648_n   牧師の最近の楽しみは、弁当男子になることです。
   阿久根でめざしを見て「これだ!」と思いました。
   昔懐かしくまげわっぱを買って、おかずはめざしと卵焼き。
   それで十分でしょう。なんだか懐かしいな~母の弁当。

2017年3月3日金曜日

噛み合わない面接

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「噛み合わない面接」

マルコ15:2 「それはあなたが言っていることです」

 イエス様はローマ総督ピラトから尋問を受けておられます。ピラトからの尋問は「あなたはユダヤ人の王であるか」というものでした。その尋問でピラトが何を聞きたかったかわかりません。ピラトはこのあと、イエス様の沈黙に関心を向けています。その沈黙に彼は驚いているのです。このイエス様の沈黙の意味を理解できずに裁判はすすんでいったのです。結局最後までイエス様とピラトは「問い」と「答え」が噛み合いませんでした。

毎年4月の初めに教職志願神学生の面接があります。事務局長のとき何回か面接にださせていただきました。実は、面接のたびに思うことがありました。それは「質問」と「答え」が噛み合わないということです。「この学生は何を言っているのか」と聞く側が推測することがあります。この場合、質問に答えてないというというのが原因だと思います。ある時の面接で、教授がたまりかねて「問はこれだから、これに答えることがあなたに求められていること」と言われた。それでも答えが噛み合わないということは、問が自分の問になっていないからなのでしょう。しかし、もう一つの問題もあります。質問する方にも力量がいるということです。何を質問するか、この質問で何を聞きたいのか。はじめから答えを設定して質問するのが質問ではないと言えます。いま何をここで聞きたいかを考えることも力量の一つです。

 イエス様はピラトの質問「お前がユダヤ人の王なのか」という質問に対して、「それはあなたが言っていることです」と答えられた。ピラトは自分が何を質問しているのかわからなかったのでしょう。自分では適切な問と思っていてもそうでないことがあります。十字架上のイエスと対峙するとき、死の苦しみの中におられるイエス様にあなたは何を問うでしょうか。それでも「ユダヤ人の王か」と問い続けるでしょうか。十字架のイエス様に問うことばを今日は探してみたいと思います。

2017年3月2日木曜日

正しさは神さまのもの

クレヨン牧師のミニエッセイ
『正しさは神様のもの』

「相手にも正義があるということを思わないならば、話し合いなどできるわけがない」。 確か石川達三氏の本の一節だったと思います。なぜかこの箇所が忘れられずメモしていたのでしょう。机を整理してましたらでてきました。
 
  相手にも正義があるということを考えて、議論することは可能でしょうか。私たちはどこかで、いつも自分は正しいと考えてはいないでしょうか。それが私たちを支えているものです。それではいつも自分は正しいか。そう考えるてみると自信がなくなってくる場合もあります。ある人は、「あなたは絶対に正しいか?」と聞かれ、「絶対ということはないが、正しいと思う」と答えていました。
 
  完全な正しさを人が持つことは、ゆるされていないのでしょうか。そうであれば相手にも正しさがあると認めて、その上で議論したいと思います。
 
 正しさとは神様のものです。人間には「自分が」という感情が働くので、完全な正しさなど与えられないのです。私たちは神様の正しさの前で話し合いたいと願います。 

2017年3月1日水曜日

神様の働きに参与する

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「神様の働きに参与する」

ヨハネ17:21 すべての人を一つにしてください

 ヨハネによる福音書でイエス様は、最後の晩餐の時弟子たちにむけて決別説教をされました。十字架の出来事の前にどうしても弟子たちに語らねばならないことを話されたのです。その後、イエス様は祈られました。父と栄光が顕れるようにと祈られるのです。その中で、父と子と弟子たちが一つになるようにと祈られました。

十字架の受難の前に弟子たちに「ひとつに」という言葉を何回も語られたように、祈りでも繰り返されたのです。

 掃除のことで面白いことを聞きました。ひとつの部屋を掃除する上手な方法があるというものです。それは毎日5分ずつ場所を決めてやることだそうです。月曜は床、火曜は台所、水曜は・・・と。これにて一週間で部屋は奇麗に保てるといいます。このやり方は大きな仕事も、自分でする仕事も同じような気がします。教会の仕事は、皆が役割を分担しながら一つのことをやり遂げていくことです。自分の中でも分担しながらやっていくことができるのです。その基本は「神様の働き」を協力・共働していくことだといえます。それぞれが賜物を持つよってすべてが整えられる。これが一つになる教会だといえます。

イエス様は「すべての人を一つにしてください」と祈られています。しかし、どうやったら一つになれるのでしょうか。それは「基本・起点」をきめることです。私たちは「神様の働き」というこの一点さえ見失わなければ一つになれます。それは教会の中でも、家族の中でも同じことです。「神様の働きに参与する」という原点を確認することです。