2017年5月25日木曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

『慢』
 落語家の志ん生が、次のようなことを書いていました。「うめえとかうまくねえとか、ひとのやっているのを聞いて、そういうことをいうについちゃ、べつにものさしがあるわけじゃありませんが、ひとのはなしイ聞いてみて、『こいつはおれよりまずいな』と思ったらまず自分と同じくらいの芸ですよ。『オレと同じくらいかな』と思うときは向こうの方がちょいと上で、『こいつはおれよりたしかにうまい』と感心したひにゃ、そりゃあもう格段のひらきがあるんですよ」。なるほど。
 
 「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚してる煩悩なのだそうです。自分中心に考えることは、どの宗教にとってもよろしくないことなのでしょう。
 
 自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないでしょうか。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。私たち一人一人の中心がなんであれ、その人を生かしも殺しもするのです。