2017年7月29日土曜日

きままな休日・これなに?

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博多の居酒屋で出てきたものです。博多鳥だと思いますが、、、
しっとり柔らかく、酢味噌でたべるなんて。まさか魚じゃないでしょう。
いやいや鳥でした。うまかったです。

2017年7月27日木曜日

山すわる

クレヨン牧師のミニエッセイ

『山すわる』
  六月や石見の鯉に山すわる
 柴田政子六日市集会所の柴田姉が、何気ない日常の中から天に召されて一年がたちました。残されたこの句を読ませて頂き、胸が震えるような感動を覚えました。神様が造られた世界を、このように捕らえることができたということが、柴田姉の信仰の証だったのです。
 
 シャンドリ-という人が次のようにいってます。「一生の終りに残るものは、集めたものではなくて、与えたものだ」。集めたものはいつか朽ち果てていく。しかし、与えたものは、たとえそれが目に見えないものでも残るのです。
 
 先日、金曜ロ-ドショ-をみていたら、主人公がいままで集めたものを、蟻の大群から守るためにすべてを焼き捨ててしまったあと、奥さんへのセリフが耳に残っています。「君に与えるものは、愛以外になにも無くなってしまった」
 
 愛さえあればよいでしょう。イエス様だってなにも持たず、愛だけもって十字架へと進まれたのですから。

2017年7月26日水曜日

成長すること

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「成長すること」

二ペトロ  3:18 わたしたちの主、救いイエスさま・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。

事務局長時代のひとつの課題は、会議全体を整えることをでした。資料の作成、事前配布、審議方法の簡略化、フォーマット作成、速報を流す体制つくりなど。また席を指定し、名札をおいて同席・陪席の色分けを行いました。整えられた会議はとても気持ちがいいものでした。ある日のことでした。35年も働いておられる掃除のおばちゃんが出席者の名札をみて一言。「あれこの子、偉くなったのね」と。学生の頃から知っている名前がそこにあったのでしょう。「ちゃんと成長したのね」と喜んでおられました。その成長がイエス様においてであればいいのですが。

 聖書にはペトロの名前をしるした2通の手紙があります。この2つ目の手紙は、著者とは異なるキリスト教理解を主張する「偽教師」を退け、その主張に惑わされないように警告しています。本日の箇所は、この手紙の最後の結びの言葉です。私達はイエス・キリストの恵みと知識において成長しなければならないことをのべています。

 中国の昔話です。「ある人が種をまいてから、毎日毎日その畑を見回っていました。ところが、となりの畑の方が芽の伸びがよい。うちの方が悪すぎるということに気づきました。そこである夜、自分の畑にでかけていき、一本一本手で引っ張って伸ばしました。翌日あれからどれだけ伸びているか期待してみにいきますと、全部の芽がお辞儀をしていました」。笑い話ですが、よく考えると笑えない話です。神様はその人にあった成長を一番よく知っておられます。ところが私たちは無理に伸ばそうとして駄目にしてはいないでしょうか。

 ペトロは「イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」と教えました。自分勝手に振る舞うのでなく、キリストの恵みと知識において成長することを求めています。私達を成長させて下さる恵み、与えられる知識はすべて神様のもの。み言葉に謙虚になることが成長のカギだと思います。

2017年7月25日火曜日

希望は残る

クレヨン牧師のミニエッセイ

『希望は残る』 
 イソップの寓話に次のような話があります。
 
 「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。
 
 そう考えてみると、神様が与えてくださるもののうち、あと二つがあれば万全になります。それは何か。『信仰と愛』です。すなわち、『信仰・希望・愛』(Ⅰコリント13:13 )が揃えば怖いものなしです。
 
  希望だけでない約束。それは信仰と愛が導くものかもしれません。

2017年7月24日月曜日

日曜日の夕方の飛行機で

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「日曜日の夕方の飛行機で」

マタイ  20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

イソップの話です。「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。私たちは見なければいけない事実から目をそらしてはいけないと思います。

 イエス様は「ぶどう園の労働者」のたとえを話されています。これも理解するにはよく考えねばならない話です。朝から雇われ真面目に働いた者と、最後の1時間しか働かなかった者が、主人の思いから同じ賃金を受け取るというものです。しかし、これは天の国のたとえ話ですから、神様(主人)の御心はどこにあるかを考えねばなりません。自分のことばかりしか見えてない者には「不平」しかないのです。

 事務局に勤務していた時の話です。日曜日の夕方、地方から羽田への便はいつも満席です。雰囲気的も「明日から仕事か~」とか「旅行も終わりだな」とか疲れている感じです。そんな時、乗客からの不満が多く聞かれます。結構、自分勝手な人たちが多いものです。昨日も「なんで満席なのに空席があるの」と乗務員さんに怒鳴っておられる人がいました。どうもキャンセルがでず、同行者とは別々の飛行機になったのでしょう。たまたま、自分の前に大物政治家の方がおられ、その横がひとつ空席だったので、政治家を優遇しているように思えて腹が立ったのでしょう。その後、どのような説明がなされたかはわかりませんが、そのやりとりを聞いている政治家さんも大変だなと思いました。

 イエス様のたとえ話の中で、不平をいった労働者の意見もわかります。1時間しか働かなかった者と同じ賃金では割が合わないからです。しかし、初めの約束は何だったか。主人の思いは何であるか。を考える余裕があれば不平を言わずにすんだかもしれません。怒鳴っていた乗客の方もきちんと説明をされたら納得なれたでしょうが、怒鳴ることによってまわりに与える影響は?と考えてみてもよかったかも。

2017年7月22日土曜日

きままな休日・呼子の活イカ

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   九州に赴任して家族ではじめてのバス旅行。我が家はバス旅行が大好きなんです。
   今回は呼子。そう活イカです。こりこりと歯ごたえ最高です。甘みもあって。
   やっぱりいいですね~げそは天ぷらにしていただきました。ついでにイカしゅうまいも1個ついておりましたよ~

2017年7月20日木曜日

同じ年でないと

クレヨン牧師のミニエッセイ
『同じ年でないと』

 作家の井上靖氏が、ある本の中で次のように書いていました。
 
 「先日亡くなった指揮者のカラヤンは僕と同じ年です。十年ほど前、小澤征爾君の誘いで、彼の演奏会に行きました。小澤君の師匠ですからね、カラヤンは。その時、彼は指揮台から下りる際に足をふらつかせた。危ないな、彼は疲れているな、と僕は思ったから、休憩時間に紹介しましょうと言われても断わった。同じ年でないと、他人のふらつきなんてわかりません」この話を読んで、なるほどだなと思いました。人は自分のペ-スで進んでいきます。しかも、誰もが自分と同じペ-スで進んで行けると思っています。ところが進めなくなって初めて隣を見るのではないでしょうか。
 
 「同じ年でないと、他人の足のふらつきなんてわかりません」という言葉には、いたわりが感じられますし、暖かいことばです。
 
 イエス様が「あなたと共にいる」といわれる言葉は、あなたのペ-スに私があわせようといわれているみたいです。

2017年7月19日水曜日

有能な妻

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「有能な妻」

箴言 31:12 彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

箴言の最終章は「有能な妻」についての格言で締めくくられています。人生における最大の幸福は、よき伴侶を見つけることだというのです。ここに登場する「有能な妻」は、料理や洗濯などの家事がよくできるというのではありません。彼女の働きは家の中の経済活動の中心です。生活全般の要の役割を担っています。そこでは、彼女がどのように生きているかが問われ、神様と共に生きる事が「有能」であると言います。

M.ルターの奥さんは、カテリーナ・フォン・ボラという人です。彼女は良妻とも悪妻ともいわれます。人々の記憶に残る働きをし、影響を与えた人だったのでしょう。だから、いろいろな伝説がのこり、人々が言い伝えてきたのだと思います。性格的には激しい人だったので悪妻などと揶揄されたのでしょう。しかし、最近発掘されたルターの家の地下台所からは、その生活ぶりや多くの人々の世話をしたカテリーナの働きの大きさがわかってきました。

私が感銘をうけた逸話は、ルターが宗教改革の動きに行き詰って塞ぎこんでいいた時、カテリーナが部屋に喪服をきて部屋にやってきます。ルターは「誰か天に召されたのか」と聞きます。すると彼女は「あなたのイエスさま・キリストが死んでいます」と言いました。ルターはハッとさせられ、それから宗教改革をより強く推進していくことになったという話です。カテリーナは、ルターにとってかけがえのない存在でした。

箴言は「彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない」と言います。これは妻だけのことではなく、夫も同じだと思います。お互いが神様を中心として結びあっているならば、そこには幸いがあります。夫婦関係だけでなく、家族でも、職場でも神様を中心として共に生きることの大切さを思います。

2017年7月18日火曜日

ルタ-って誰ですか?

クレヨン牧師のミニエッセイ

『ルタ-って誰ですか?』
 フィリピンにアバタ-ンというところがあります。マニラからバスで二日かかる山のなかですが、そこにル-テル教会があります。信徒数約三千人、牧師は一人という教会です。といっても集会所がたくさんあり、牧師が一年に一回まわって、聖餐式を行なうということでした。その教会の病院をつくるワ-クキャンプに参加したのですが、病院と教会が一体となったル-テル教会だったのです。毎週日曜日になると鐘がなりますが、その鐘は戦争中に日本軍が村に打ち込んだ爆弾の頭から出来ており、胸が痛くなりました。その教会に私たちはお土産を持っていきました。ルタ-の顔を彫ってあるレリ-フで、きっと喜ばれるであろうと思っていました。もちろん大変喜ばれましたが、受け取った教会の代表者は、「質問ですが、これは誰ですか」と聞かれました。私たちは自信たっぷりに、「ルタ-です」と答えました。すると、「ルタ-ってどんな人ですか。初めて聞きます」といわれてしまいました。
   ルタ-、ルタ-と言うわりに私たちも、あまり分かりません。しかし、ルタ-は、『信仰・恵み・聖書』を大切にしたことだけは知っています。

2017年7月17日月曜日

小さな存在の中に知恵

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「小さな存在の中に知恵」

箴言 30:25 蟻の一族は力はないが、夏の間にパンを備える。

六日市集会への道には蛍の道があり、蛍がたくさんいます。ローマ・カトリックの祈りで「蛍の祈り」というものがあります。

 「神様。ほんの少しだけ あなたの光りを 遠ざけてくださいませんか?

      わたしはこんなに小さい 消し炭みたいなものですから

      どうしても 夜がこないことには・・・

      闇の中なら わたしの心は勇気をふるって

      希望の星をほのかにきらめかせるでしょう。

      そして どんな貧しさの中にひそむ この小さなよろこびを

      人々の心に伝えることができるでしょう」

 ひとつの蛍の光りはちいさいものですが、多くなれば山全体がクリスマスツリ-となります。

箴言30章は「アグルの言葉」となっています。しかしこのアグルという人物が何者で、どこまでがアグルの言葉なのかはっきりしません。冒頭には「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」とアグルは言います。アグルが神様の知恵を探し求めたが、結局はわからなかったということです。しかし、神様が作られた小さな存在の中に「知恵」を見つけたということでしょうか。

「黒い絨毯」という映画がありました。アマゾンを舞台にした、恋愛映画のような不思議な物語でした。アマゾンで農地を開拓し大金持ちになった主人公が、アマゾンにいる蟻と戦ってすべての財産をなくすというストーリーでした。その蟻の描き方は、1匹から始まって最後には全てを食いつくす集団として出てきます。山中に広がった様子が「黒い絨毯」と呼ばれていました。この蟻は、実存するらしいのですが、まずは1匹の偵察蟻が集落に紛れ込みます。そこに食べ物があれば数日後には何百万・何千万の大群となって押し寄せてきます。そして財産を食いつくされる。映画は、主人公の男性がこの蟻と戦い全てを無くすが、最後に奥さんに言うのです。「あなたに与えるものは愛しか残らなかった」と。

箴言は「蟻」「岩狸」「いなご」「やもり」という小さな存在のなかに「知恵」を見ています。どんなに小さな集団であっても、そこに「知恵」があれば、大きな存在となるのです。神様はそのような「知恵」をすべての人に与えておられます。私たちも小さな存在かもしれませんが、そこに神様からの「知恵」があるとき、その働きは神様の働きとして大きなものになると教えられます。

2017年7月15日土曜日

きままな休日・木村のあられ

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子どものころから大好きなお菓子って何?
   それは「色紙」ですよね。この塩っけがたまりません。小さいころはこれをよくなめてましたね。
   ブルボンの羽衣あられで代用してきましたが。熊本に帰ってきたら木村のあられですよね。
   やっぱり故郷にいるっていいな~

2017年7月13日木曜日

なくしたものをみつける

クレヨン牧師のミニエッセイ

『なくしたものをみつける』

 良寛さんの逸話に次のようなものがあります。
 
 「ある人がお金を拾った。それがとてもうれしかったという話を、良寛さんは聞いた。『金を拾うのはそんなに楽しいものかな。わしもひとつ試してみよう』と考えて、良寛さんは布施で得た銭をわざと道にすて、そして拾った。少しも楽しくない。『こんなことが、なぜあの男にはうれしかったのだろう』と思いながら、何度も何度も捨てては拾い、拾っては捨てているうちに、ポ~ンと投げた銭が草むらの中へ落ちてしまった。今度はなかなか見つからない。あっちこっち探し回ったあげく、ようやく見つけて拾い出した。するとうれしくてうれしくてたまらない。良寛さんはひとり満足げにつぶやいた。『なるほど金を拾うのは、ほんに楽しいゆかいなものじゃ』と」
 ないものを得ることと、なくしたものを見つけだすことは、どちらも楽しいことです。しかし、神様にとって人間は、勝手にいなくなってしまったものではないでしょうか。だから見つかったときには、神様の国全体に喜びが満ちあふれるのです。「いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:32

2017年7月12日水曜日

冷静になって

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「冷静になって」

箴言 29:11 愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

雑誌で会社内でのトラブル相談という特集記事を読みました。多くは上司に対する不満が多く、理不尽に感情的になる上司に対してどう対処するかというものです。多くの回答が「まともに相手にしないことです。まともに相手にしたら、あなたの品格が下がります」というものが多かったです。人間の心理からいえば、感情的に発言された言葉はほとんど聞かれていないという調査があります。何回も感情的になって上司が怒鳴っても聞かれてないのは、言葉が届いてないから。だから同じことを繰り返すだけだと。そう思えば「まともに相手にしないことです」という回答の意味はそこにあります。

箴言29章では、教育の限界をのべています。いくら教師から忠告をうけ、懲らしめられても聞き従わない者(頑固者)がいる。現代風にいえば、つっぱる生徒に教師はお手上げの状態になることがあるというのです。そのような時に教師はどうするか?まずは教師から「冷静になれ」と教えています。

風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば、それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。

箴言は「愚か者は自分の感情をさらけ出す」とあります。感情をさらけ出す愚かさは、それが相手に伝わらないからです。「知恵ある人はそれを制し静める」とは、本当に伝えたいならば自分を静めること。冷静になって伝える努力をすることなのでしょう。感情的な言葉では伝わらないけれど、静かに諭されたとき伝わることが多いことを箴言は静かに語りかけています。

2017年7月11日火曜日

土に触れたい

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
『土に触れたい』
 教会の庭をすこしづつ手を入れ始めました。といっても、いろいろな草花を植えているだけですが。土に触れていると安心します。土をいじりながら思い出すことがありました。昨年、天に召された六日市集会の柴田姉のことです。姉が最後に残された言葉は、「土に触れたい」でした。神様が造られたこの世界が、私たちに平安を与えてくれると教えらたのです。
 
 草取をさぼれば、あっというまに雑草がふえていきます。これは雑草ときめているのは私の方ですが。そのなかにも奇麗な花を咲かせるものもあります。よく見ると大根の花までありました。いつか誰かが撒いた種がちゃんと生きているのです。感動しながら見渡すと、いちごもありました。あれはじゃがいも。あさつき。ねぎ。これは里芋。そしてゴミ焼き場からはねぎが顔をだしています。
 
 意識的に撒いたわけではありません。むしろ捨てたのです。しかし、捨てたところからでも命は、神様によって生かされているのです。この大地の生命力には驚きでした。アダムは土から造られた。土に触れると神様と出会います。

2017年7月10日月曜日

冷静になって

鹿児島ルターくん朝のみ言葉
 
「冷静になって」

箴言 29:11 愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

雑誌で会社内でのトラブル相談という特集記事を読みました。多くは上司に対する不満が多く、理不尽に感情的になる上司に対してどう対処するかというものです。多くの回答が「まともに相手にしないことです。まともに相手にしたら、あなたの品格が下がります」というものが多かったです。人間の心理からいえば、感情的に発言された言葉はほとんど聞かれていないという調査があります。何回も感情的になって上司が怒鳴っても聞かれてないのは、言葉が届いてないから。だから同じことを繰り返すだけだと。そう思えば「まともに相手にしないことです」という回答の意味はそこにあります。

箴言29章では、教育の限界をのべています。いくら教師から忠告をうけ、懲らしめられても聞き従わない者(頑固者)がいる。現代風にいえば、つっぱる生徒に教師はお手上げの状態になることがあるというのです。そのような時に教師はどうするか?まずは教師から「冷静になれ」と教えています。

風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば、それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。

箴言は「愚か者は自分の感情をさらけ出す」とあります。感情をさらけ出す愚かさは、それが相手に伝わらないからです。「知恵ある人はそれを制し静める」とは、本当に伝えたいならば自分を静めること。冷静になって伝える努力をすることなのでしょう。感情的な言葉では伝わらないけれど、静かに諭されたとき伝わることが多いことを箴言は静かに語りかけています

2017年7月7日金曜日

桜島が元気

さすがに桜島は元気です。
噴煙の高さが違いますね。
熊本から来るとびっくりします。

2017年7月6日木曜日

球場はパラパラで

クレヨン牧師のミニエッセイ

『球場はパラパラで』
 大阪で会議の合間に、プロ野球を観戦してきました。岡山教会の市原先生と一緒だったので、大いに迷いました。何を迷ったかといえば、阪神戦に行くか近鉄戦に行くかということです。しかし結論は近鉄戦と決りました。なぜなら、優勝を前に白熱しているパリ-グの試合が、きっと面白いだろうということでした。
 
 早くいかなければキップが手に入らないかも、ということでウキウキしながら球場へむかいました。「今日は球場全体にいっぱいファンがいて大変だよ」とは、市原先生。「この試合で西武の優勝への道が別れるんですよ」と私。ところが球場へついてア然です。観客はチラホラなのです。多少近鉄側が多い位で、オリックス側はパラパラていど。それでも観客は、1万はいるだろうということでした。ル-テル教会は信徒数が約1万とすれば、なんとなく思いつめた気分になりました。しかし、試合はさすが投手戦で見ごたえ充分でした。
 
 帰りがけに、「教会も同じようだけれど、礼拝はどこにも負けない礼拝をしよう」と二人で誓いあってきました。教会の空席はまだみえない人の指定席。この席のために祈っていきたいです。

2017年7月5日水曜日

一言聞いてあげれば

鹿児島ルターくん朝のみ言葉

「一言聞いてあげれば」

エフェソ  4:29 聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

最近ある電話がかかってきました。高級毛皮の売り込みで、「愛する奥さんにどうぞ」とのこと。「いくらですか」と一応聞いてみました。すると「三百万円」だそうです。小さな教会の一年分の予算くらいだなと思いました。とうぜん断りましたが、それからです。その電話のセ-ルスマンが、「よろしいですよ。私も無理だとは思っていたのですが。ダメでもともと、あてにしないでお電話したのですから」というではありませんか。おかしいやら、知っているなら聞くなと、なんとも言えない気分で受話器をおきました。まったく役に立たない言葉でした。

パウロは悪い言葉を戒めています。言葉とは生き物で、言葉一つで人を励ましたり、祝福したりできます。しかし、使い方を間違うととんでもないことになります。言葉には命がありますから、言葉の中にある神様の命を大切にせねばなりません。

熊本空港にドライブにいってきました。早くもお盆休みをおえて早めに帰京する人々で満席の状態でした。事務局の時の飛行機の往復を思い出しました。私はいつも真ん中の座席の通路側に座ります。そこは3人がけになっており、隣には小学校5年位の男の子と、お母さんがすわりました。ところが座ったとたん、男の子は独り言をしゃべり始めました。「この飛行機はもうすぐでるかな」「パイロットはどんな人で何人いるか知っているよ。2人だな」とか。自問自答するのです。しかもそれから飛行機を降りるまで約2時間、しゃべりっぱなしでした。お母さんはということ、完全無視。ひとことの相槌もなく、雑誌を読んでいました。とてもつらい光景でした。きっと男の子はお母さんと話したいのでしょう。でも聞いてくれない。また聞いて言葉をかえしてくれない。これから大変だろうなと想像しました。

パウロは「聞く人に恵みが与えられるように」といいます。そのために「その人を造り上げるのに役立つ言葉」を語りなさいといいます。聞く人と語る人がいつ。この間に言葉があります。その言葉には神様が存在しておられるのですから、私たちも聞くこと、語ることに注意したいと思います。

2017年7月4日火曜日

やることがある

クレヨン牧師のミニエッセイ

『やることがある』
 死刑囚達の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。
 
 その中に一人の男の記録がありました。その男はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。
 
 笠戸島へいく道路を車で走っていますと、日立の工場への引き込み線をわたります。ふと見ると線路のなかに、秋桜が咲いていました。いつかはこの線路の上を新品の電車が通る。すると花はなくなってしまいます。しかし、それでもそこに咲いていることに神様の意味があるのでしょう。

2017年7月3日月曜日

私たちの中に

鹿児島ルターくんの朝のみ言葉

「私たちの中に」

マタイ 18:19   どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

東京の教会にいた頃「この教会の基礎は腐っていますね」とある人に言われました。牧師である私は、「そんなことはありません」と反発しました。しかし、それは本当なのです。となりのビル工事の建築家の眼でみれば事実なのです。私は聖書を読んでいたので、建物の基礎と教会の基礎をだぶらせて聞いてしまったわけです。建物にとって基礎とは何か。基礎のない建物はありえないこと。一番に気をつけるところが基礎であること。建築家の話を聞きながら、私たちの教会は幸せだなとしみじみ感じました。それは、イエス・キリストという土台の上に建っているからです。その土台の一つに祈り共同の祈りがあります。

イエス様は、「兄弟が罪を犯した場合にはまず2人だけになって忠告しなさい」と教えます。それでもダメなら、一人か二人をつれていって忠告しなさいと教えます。それでもだめなら教会に申し出なさいと。一方、願いごとに関しては、「あなたがのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら」といわれます。どちらも「まず二人で」ということが基本になっています。この二人という単位は何だろうかと思います。

会議用のワークショップ入門書を読んでいます。その中に、「私たちとは何か」という問いかけがありました。面白かったのは「You and I」と「We」の違いは何かというものでした。どちらも日本語では「私たち」になります。その本によると、「あなたと私」に第三者が加わったときに「我々」となると教えていました。この第三者をいつも感じ、受けとめている重要性をといていました。まだ読み始めたばかりなので、そのことの意味はこれから学んでいきますが。たしかに人間関係においてこの第三者の視点は確かに重要だと思います。

イエス様がまず二人でと言われるときも、この第三者の存在があるように思えます。その第三者はイエス様です。つねにそばにイエス様を感じるところで「忠告」「願い」がおこるのです。私たちの事務局の仕事の中にもこの「第三者」である、イエス様を感じながら与えられた働きを勤めていきましょう。

2017年7月1日土曜日

きままな休日・大盛り飯

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大盛りが有名な、どんじゅうにきました。
普通の定食でも中盛!大盛りは170円増!
それでも800円位。490円の定食でじゅうぶんでした。
   大江教会特盛探検クラブが発足しました。
これから大盛り飯を探求していきます。お楽しみに。。