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9月, 2017の投稿を表示しています

阿久根でコンサート

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『またまたまた冷蔵庫の話」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『またまたまた冷蔵庫の話」  暑い日が続いたので、冷蔵庫をあける回数が増えてきました。別にさして用もなく、ただ冷蔵庫をあけるだけで涼しくなるような気がするのです。冷蔵庫は冷たい。なにかそう思わせるものがあるのです。しかし考えてみれば、中は涼しくてもその代わりに熱を外へ出していることを思えば複雑な感じです。     さて、今回は冷凍庫をあけてびっくりしました。いつのものだかわからない物がびっしり。こういうのをフリ-ジングとでもいうのでしょうか。しかも隙間もないほどつまっているのです。まあ考えようによっては、ムダをはぶき節約になるのでしょうが、これでいいのかなと思ったのでした。なぜなら、ここには余白が無いと感じたのです。つまり冷気が通る道がない。いまの冷凍庫はそれでもいいのかもしれませんが、結局は使わずに捨ててしまうのがおちです。     信仰の問題も同じだといえます。心にはぜひとも風の通る道(余白)を置いてほしいものです。聖書によれば、聖霊という単語はもともと風という意味なのですから。 あなたの心には御言葉の風が、春風のように流れていますか。

「命の言葉」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「命の言葉」 フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう  「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが 書かれてありました。「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。  パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。心の振動・命を伝えるのが言葉です。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」がどんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。その「命の言葉」を大切にすることがキリスト者の努めだと言えます。使命も生命も、その中止には神様のみ言葉があります。 何世紀もの昔、イギリスである王様が驚くような実験をしたそうです。それは生まれたばかりの赤ちゃん10人に対して、一言も言葉をかけなかったら成長して何語を話すかという実験です。大変残酷な実験だと思います。言葉による触れ合いをさせなかったというのです。さて、皆さんにはこの実験結果がどうなったかわかりますか。実は、赤ちゃんは2歳にならないうちにみんな死んでしまったのです。  パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。私たちの人生は神様のみ言葉をしっかりと持つことによって生かされた人生となります。命の言葉を保つことによって使命が与えられます。今日は自分の言葉のひとつひとつに「命」を意識して過ごしてみたいと思います。

『松崎さんの鶴』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『松崎さんの鶴』  益田教会の松崎さんが、十二日午前十一時に召天されました。松崎さんといえば私たちの心に残っているのは『鶴』ではないでしょうか。半身が動かなくなられてリハビリのために右手だけで折鶴を作り始められました。最近は1センチくらいの鶴を数分で折られるまでになられました。     松崎さんは鶴を折られると必ず、そこにいる人に差し上げておられました。ある時朝日新聞のお便りコ-ナ-に、「病院の待ちあい室で小さい鶴をいただいて驚きとともに、人は病気で残された半身でも人に愛を与えることができる」というようなことが紹介されていました。私たちは自分が壁とか障害にぶつかったとき、「もうだめだ」と思うかもしれません。しかし、それでも何かできるという発見をさせてくださるのが神様です。     松崎さんにとっては片手で鶴を折ることでした。そしてどこへいっても、そこにいる人に微笑みとともに小さな鶴をプレゼントされました。小さな鶴をいただいた方に勇気を与えておられました。信仰の証がそこにはありました。

「主が必要とされる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「主が必要とされる」 マルコ 11:3 『なぜ、そんなことをするのか』『主がお入り用なのです』 心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。 奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。 イエス様がいよいよエルサレムへ入場される場面です。神の子として、王としての入場ですからさぞかし華やかだったかといえば、そうではありません。この入場に必要とされたのは「子ロバ」でした。旧約聖書の預言の成就ということもありますが、「主が必要とされる」ということに注目したいと思います。 さて「いかに伝道するか」という講演会のお手伝いをしていると、帰りぎわに信徒の方から声をかけられることがあります。その中で多いのが「どうしてそんなに伝道しなければいけないのですか」という言葉です。はじめは、本気でおっしゃっているのだろうかと思いました。しかし、このように思っている人達が多いことに気がつきました。きっと、生活や仕事に忙しいのです。それに加えて伝道なんてとても出来ないと思っておられるのです。伝道はきついものだ、辛いものだ、時間がかかるものだ、お金がかかるものだ、という考えが多いのです。牧師からも同じことを聞きますから「どうしてそんなに伝道しなければ」となるのでしょう。そんなに数を増やさなくてもよいと。しかし、伝道は喜びの出来事を伝えることなのですが。    なぜ伝道するか。答えは「主が望んでおられるから」です。これが本当の答えになっているかどうか疑問です。主が望んでおられても、「わたしにはできません」と答えているかもしれません。それでも「主は望んでおられる」のです。この教会での働きも主が望んでおられる働きです。そこに思いを集中してまいります。

礼拝ですよ~

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きままな休日・広島でランチ

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広島にある バッケン・モーツアルトのランチ なかなかボリュームがあって かなら美味しかったですよ!

今日からです!

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『加藤さんの信仰』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『加藤さんの信仰』  「あなたの信仰を語れといわれたら、生れてから死ぬまでの全てを語らねばなるまい」という言葉があります。一人の信仰者が天に召される時、そこには神様が見えてくるものだと思います。     柳井教会の加藤嘉治兄が召天されて一週間がたちました。確かにさみしさもありますが、それ以上に『信仰』とは何かを教えられているようです。加藤さんの告別式を通して、復活の信仰と神様の救いの大きさを示されました。加藤さんの生涯とは何だったのでしょうか。それをはっきり教えられたのは火葬の翌日、お骨を納めにいったときです。火葬場の蓋があけられ、私たちの前に示されたものは、大きな膝の骨と灰になってもなお形を留めている聖書でした。     加藤さんの信仰は『膝の信仰』でした。毎週自転車で教会の礼拝に通われました。そして毎日自転車で法務局に通われました。神様が与えられた職務を確実に果たし、教会の礼拝にて恵みと祝福を受ける。九十歳を越えてなお山を一つこえての道のりでした。信仰の強さと御言葉が確実に残ることを示されました。加藤さんのお墓は直筆で「我が事の終れり。神のみ許で我憩わん」と書かれている。

「宣教は刈り入れ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「宣教は刈り入れ」 ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。 教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。 イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。 ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。 教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか

『おはようの言葉でも』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『おはようの言葉でも』  NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。     先月から最後の讃美歌に『ちいさなかごに』を歌っています。そのなかに、「『おはよう』とのあいさつも、心込めてかわすなら、その一日おたがいに、喜ばしく過ごすでしょう」とあります。声をかけることは、実はその人に触れることです。たった一言でもいいから、声をかける時に心を込めてみる。それができたらどんなに楽しいだろうと思います。イエス様が復活されたとき、悲しむ婦人たちにむかって言われた言葉は、「おはよう」(マタイ 28:9 )でした。

「あなたが言っていること」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「あなたが言っていること」 マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです 。 子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。   私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。 イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。 「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。  1、みんな持っているから。  2、誰も持っていないから。  3、やせてみえるから。  4、夫が「買うな」と言ったから。   どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

礼拝にどうぞ!

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きままな休日・お好み焼きは広島

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お好み焼きと言えば 広島でしょう! と広島で暮らした娘たちは譲りません。 そうですね~そうしておきましょう。

来週ですよ!ワークキャンプ

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『ほっといたかて死ぬ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『ほっといたかて死ぬ』  清水寺には故人となられましたが、大西良慶貫主という方がおられました。誰でも知っている言葉、「美人は三日みたら飽きるが、その他は三日みたら慣れる」だから心を基準に結婚を決断しなさい、といわれたお坊さんです。その良慶貫主が百七歳になったとき、インタビュ-に答えていわれた言葉を思い出します。      「ほっといたかて死によるんやから、死ぬことなんか考えてないの」     死ぬことを考える。これは大切なことだと思います。しかし、良慶貫主が言われたのは、それに捕らわれて何もできなくなってはいけないということです。死に捕らわれることなく、死を考えることができたら幸いです。     そのことを示されたのは、イエス様でした。十字架の傷跡をお見せになって、死を示されたのですが(ヨハネ 20:20 )、それは死を通り越して復活したところで示されたのです。死を示しておられるかたが、命を得ておられる。その命を信じるものに与えよといわれるのです。     「ほっといたかて死による」。だからこそ新しい命を考えたいと思います。信じるものになりたいと思います。

「夢中になって」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「夢中になって」 ルカ   19:48 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。 「何かに夢中になると免疫力があがる」という話をきいたことがあります。ある研究者がその実験をしたそうです。日頃からプロ野球でひいきのチームをもって夢中になって応援する人を、各チームから10名ずつ選び、試合を観戦して試合後に採血検査をする。これを繰り返し調査したそうです。するとチームの勝ち負けに関係なく、夢中になって応援したファンの免疫力が増しているという結果がでたそうです。つまり、夢中になることで人は免疫力がアップするというのです。 イエス様はエルサレムに入城されたあと、神殿の境内で民衆に教えておられます。この神殿では「宮清め」商人たちを境内から追い出すという厳しいイエス様をみることができます。祭司長や律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺してしまおうと計画しています。しかしできませんでした。なぜか?それは「 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」でした。聖書の中で「夢中」とい言葉が使われているのは、ここしかありません。私たちは「夢中になって」イエス様のみ言葉をきいているでしょうか。 ある雑誌に、ラオスでドングリを食べた話が書いてありました。山奥の村にでかけていったとき、夕食に単に茹でたドングリがでたそうです。特に美味しい訳でもなかったけれど、いつのまにかなくなっていたという話です。その作家は続けて書いていました。「もともと人間の食とは、そこにあるものを食べるということ」だと。「そこにあるものを食べる」。それを料理して美味しく食べるのは文化です。しかし、そこにないものを高いお金を出して取り寄せて食べるということは、本来の「食」の在り方だろうかというものでした。たしかに、食についての疑問はたくさんあります。美味しいと思う部分のみを食べ、それ以外は捨ててしまう。賞味期限に惑わされる。本来の食べるということから間違った方向を歩んでいるのかもしれません。そこにある物とは、神様がその人に与えた物ということです。神様は、その人にあった物を与えられる。そのままいただくことの難しさを感じます。神様の愛を素直に受けることで、私が生かされるはずなのに素直に受けられないでいる。本当に何が大切

『痛いね』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『痛いね』  ちょっとした不注意から、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。うちのカミさんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ないわよ」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは、娘の華美でした。最近、「痛いね」という言葉を覚えた華美は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。     私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。苦しい時、「今、苦しんでいるのね」と分かってもらえたらどんなにうれしいでしょうか。十字架の意味はそこにあると思います。あなたの痛みがどんな痛みかを知るために、キリストは十字架に掛かってくださったのです。

「良く計算して」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「良く計算して」 ルカ   14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 ルサレムに行くと幽霊ホテルといわれているものがあります。外国の資金で建てられた高級ホテルになる予定でした。しかし、完成はしたのですが一度もオープンせず、そのまま放置してあるのです。出資会社が倒産したわけでもありません。じつは、そのホテルはデザイン重視で総ガラス張りのホテルだったのです。中近東の砂漠地帯にエルサレムがあることを計算に入れずに建築した結果です。つまり、中で人がくつろぐような温度ではなく、砂漠以上に暑いホテルになってしまったのです。どうしてまず計算して考えなかったのでしょうか。 イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。 牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま54歳と半年なので、ザ~っと計算そても「19787日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の子では「一九0五日」ですが・・・。いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできないものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。 イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生に

礼拝は土曜日です

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気ままな休日・もみじまんじゅう

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広島に行ってきました。 お土産はさすがに「もみじまんじゅう」 最近では「生もみじ」が売れてますは、 やっぱり王道でいきましょう!

きままな休日・生もみじ

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  広島に行ってきました。 お土産はさすがに「もみじまんじゅう」 最近では「生もみじ」が売れてますは、 やっぱり王道でいきましょう!

ワークやンプです。

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『見知らぬ痛み』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『見知らぬ痛み』  ラジオを聞いていたら、こんな歌が流れてきました。      「見知らぬ痛みが体をあるきだした」     女性歌手が歌っていたのですが、なぜかピンとくるものがあったのです。どこで打ったか分からないが、あとで痛くなることはよくあります。しかし、その歌を聞きながらピンときたのは、私たちがいままで知ることのできなかった痛みが、体のなかで動き始めたと聞こえたのです。     私たちは自分が一番痛いと思っています。しかし自分の痛みだけでなく、となりにいる人の痛みをどれだけ知っているのかといえば、それが家族の一員であっても知ろうとさえしていないのです。     見知らぬ痛みを感じる。これは、自分の痛みを捨てなければできない。もっといえば、自分だけが痛いという考えを改めるということです。今週は受難週です。キリストの痛みがあなたの体に伝わるでしょうか。その痛みはもちろんあなたのためのキリストの痛みです。

「人の知識をこえた愛を」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「人の知識をこえた愛を」 エフェソ  3:19  人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。   「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の姿を刻まれた人としての私がいるだけです。どの視点でみるかで、かなり見え方がちがってくるのです。  パウロは、エフェソの人々がキリストの愛にしっかり立ち、神様の愛を知る者になるように祈ります。これはパウロの執り成しの祈りでもあります。キリストの十字架の愛を知ることは、人の知識をはるかに超えたものであること。その愛か知り、広さ、永さ、高さ、深さを理解することも大切であると祈ります。  LWFから救援アドバイザーのマタイさんと食事をしたことがあります。彼にはインドに3名の娘さんがおられるそうです。そのうち、双子の娘さんもおられると聞きました。インドでは娘さんが結婚するとき、娘さんの家族が持参金をたくさん持たせねばならないと教えていただきました。多額の持参金がないと結婚が破断になったり、実家に戻らされたりするとか。娘さんをもつと破産するなとか。しかし、もともとの理由は嫁いでいった先で生活に苦労しないためだそうです。親の娘への愛情がそこにあらわれているのです。どちらから考えるかでかなり違うはなしだと思いました。親心というのでしょうか、それがあるからいまも風習としてのこっているのでしょう。  パウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と言っています。神様の愛というのは人の知識をはるかに超えています。その愛を知るこ

『恵みを数える』

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クレヨン牧師のミニエッセイ   『恵みを数える』  地区青年会と牧師達とが集まり、柳井にてワ-クキャンプが行なわれました。聖卓のペンキ塗りや、床ワックス、礼拝堂の整備がおもな仕事でした。やりながら、ある牧師が、「このような仕事はやればそれだけすぐに結果がでるから楽しいね」といわれました。そうだなと思いつつ、神様がなさる仕事はすぐには結果はでないけれど、確実に結果はでるのだと考えていました。みるみる整備されていく礼拝堂は、やっているほうにも恵みを与えてもらったようです。     今年から徳山教会では、『恵みを数える』ことをはじめました。どんな小さなことでも数えていけば、あるわあるわで、こんなに神様の恵みをいただきながら生活しているのかと驚かされています。そして楽しくなってきます。みなさんもぜひ「一日の恵み」を数えてください。すると、すぐには見えてこない神様の私への関わりが、浮び上がってきます。またそれが確実なものとして喜びに変えられていくのです。     「恵みを数える」。すると明日がくるのが楽しみになります。明日は明日でどんな恵みがいただけるのでしょうか

「つながる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「つながる」 ヨハネ   15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 ある時、他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。  古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。なにかつながっているという感じがあるのです。  今日のみ言葉は、イエス様が十字架の出来事前に語られた決別説教のみ言葉です。ぶどうの木と枝のたとえ話から、十字架という緊迫した出来事の中で何が大切かを教えておられます。イエス様は、木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの関係で重要なことは「つながる」ことだと言われました。木はイエス様で、枝は弟子たち・私たちを意味しています。そのつながりの中に神様の命も知ることができます。  東日本大震災救援活動報告を全国各地の集会に呼ばれておこなっています。九州では、多くの方が参加してくださいます。緊急救援からの1年間をとくにはなしております。私たちの緊急救援は各教会・女性会で、わかめプロジェクトにはじまりました。雑巾、おすそ分け、思い出写真洗いと活動が広がりました。被災地とつながった活動ができたという感想をいただきました。講演後の質問の多くは「これからは何をしたらいいでしょうか。どんな支援が必要でしょうか」というものです。全国の皆さんが被災地の方々とつながっていたいという気持ちを感じました。「まず、祈ってください」と答えました。ルーテル教会としての課題は、救援活動がどのようにつながっていくかだと思います。そのために秋刀魚やあぶり焼きいわしがやってきます。  イエス様は「 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われ

礼拝です!

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気ままな休日・なにもないピラフ

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なにもない日 冷蔵庫の中にもなにもないですね。 そんなときは、あるものでピラフですよね。 焼き飯とも言いますが、、、

ワークキャンプin鹿児島

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