『痛いね』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『痛いね』

 ちょっとした不注意から、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。うちのカミさんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ないわよ」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは、娘の華美でした。最近、「痛いね」という言葉を覚えた華美は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。
 
 私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。苦しい時、「今、苦しんでいるのね」と分かってもらえたらどんなにうれしいでしょうか。十字架の意味はそこにあると思います。あなたの痛みがどんな痛みかを知るために、キリストは十字架に掛かってくださったのです。

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