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10月, 2017の投稿を表示しています

『なまえ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『なまえ』  久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、 ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想したり教えられました。     さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。     多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。     私たちは名前を持っています。同じ様に神様にも名前があります。どうかその名前だけは大切にしてください。その名前とは、イエス・キリストの父です。

「教える人は聞かない?」

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鹿児島ルターくんの朝のみ言葉 「教える人は聞かない?」  マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」 キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。  イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。  最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。  イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

礼拝で待ってます!

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きままな休日・どんじゅう

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熊本に「どんじゅう」という定食屋さんがあります。 このごはん!大盛りですですが、なnんとこれで700円 素晴らしい!食欲の秋ですね。

いよいよです!

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『~らしさ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『~らしさ』  福富護氏の「らしさの心理学」という本は、次の文で始まっています。     「『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい』。みなさん御存知の夏目漱石の『草枕』の一節です。世のなかは理屈どおりに機能しているわけでなく、感情のおもむくままでもない。無理して頑張っても窮屈でしかない。そう考えてみると、『自分らしく』ということがどんなに大変なことかわかる」。この本を読みながら、私たちがよく「~らしく」というけれども本質がみえてないことが多いと気づかされます。教会の前においてあるプランタ-は、この晴天続きで草花が根付きません。しかし水もやらないのに雑草だけはキチンとはえてくる。しかも水をやらないのに枯れない。不思議だなと思います。これも「雑草らしく」ということでしょうか。     神様の前で「私らしく」ありたいと思えば思うほど、違う自分を作り出しそうでいやになります。しかし、神様はちゃんと「あなたらしく」を知っておられるに違いないと確信していいです。

自分のいいとこ20

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 すみません!アップができてませんでした!   「自分のいいとこ20」   ヤコブ   2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。  聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。   有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。  「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう

アップの再開

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  申し訳ありません。アップのし忘れです。 明日からまた再開しますよろしくお願いします。

礼拝にどうぞ

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阿久根コンサート明日です!

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『共に悲しむ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『共に悲しむ』 「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」     指紋押捺拒否裁判を担当された弁護士さんの言葉です。一人の人の考えや生き方を変えようとする場合、闘争的になるのはどうしてでしょうか。強い者が正しいという考えがどこかにあるのでしょうか。     校門に挟まれて亡くなった高校生の出来事に、胸が痛くなりました。また逆にそうせざるを得なかった教師にも胸が痛くなります。ニュ-スをみていたら数日後、校門の前で二人の大学生がビラを配りながら叫んでいました。「教師がそこまでして、校門を閉めなければならないような学校にしたのは、君たち生徒一人一人なんだ」と。私たちはどう考えますか。     「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」私たちは責められても責められても、自分を変えようとはしません。しかしそこに共に胸の痛みを感じ、悲しむことがおこったとき人は変えられていくと思います。      私たちが救われているのは、イエス様が一人一人と共に悲しんでくださるからではないでしょうか。

「骨髄まで響く」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「骨髄まで響く」  マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者 進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。  イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。 「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」 イエス様は自分が神様の子であること、

『三球三振』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『三球三振』  母校の地区予選敗退にて、来年春の甲子園は終りました。残すは鹿児島の代表を応援するのみです。      野球といえば少年のあこがれのスポ-ツです。とくに投手になりたいと思う人が多いのではないでしょうか。投手の出来がその試合の大部分を左右するといってもよいでしょう。その投手も最近ではいろんな球種をもっています。ストレ-ト、シュ-ト、カ-ブ、シンカ-、フォ-ク、パ-ムボ-ル、まだまだあります。私などがなげても直球を投げているつもりが、自然と右へ曲がってしまいます。こんなのはナチュラルシュ-トというのでしょうか。しかし野球をみていて一番面白いのは、直球で勝負というものです。  イエス様の御言葉もいろんな届き方をします。御言葉の球種はその人の心にあわせて飛んでくるのです。私たちが喜びにあふれているときは、応答というバットでホ-ムランをかっとばします。でも苦しいことがあるときには迷いのバットで見逃し三振となるかもしれません。  どうせ三振するのであれば、御言葉の直球におもいっきり大振りの三球三振といきたいですね。 

「深めていく愛」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「深めていく愛」 ユダ   1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。 フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。  ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。 ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」  私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

礼拝にどうぞ

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阿久根コンサートへどうぞ

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『からだが語る』

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クレヨン牧師の実のエッセイ   『からだが語る』   「言葉が沈黙すると、からだが語り始める」竹内敏晴氏の言葉です。人は口からでる言葉と、からだが語る言葉のふたつをもっています。キリストの十字架もからだが語る言葉なのです。      娘も二才になり、六日にはおねえちゃんになりました。今が彼女にとって試練のときみたいです。お母さんがいないさみしさと、赤ちゃんができた複雑な気持とで、言葉にだせないところをからだで語っているようです。泣いてみたり、怒ってみたり、物を口に入れたり出したり。これは必死に事実を飲み込もうとしているのではと思わされます。一番の試練は、「愛は受けるだけではなく、与えるものだ」ということの認識ではないでしょうか。いままで自分が独占していた愛を、今度は自分が妹に与えていくのだという葛藤を、からだで訴えようとしている。     イエス様は口から語る言葉と、それを越えるからだが語る言葉をもっておられます。イエス様の生き方、存在そのものがキリストを語るのです。      私たちもまた自分の存在そのもので、イエス様を語りたい。  

「手伝わせてほしい」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「手伝わせてほしい」  マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために 子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。 イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。 「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。  「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。

『結婚式の意義』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『結婚式の意義』  教会で結婚式が三件ありました。結婚式は、神様と会衆のまえで相互の約束を交わし、その約束の上に神様の祝福を祈る式です。大切なことは、約束を神様のまえで交わすことにあると言えます。そこに意味があると考えてきました。しかし最近結婚式を行なうたびにあることに気がついたのです。そのことは出席している人には無意味なことでも、神様にとっては重大な意味があることです。     私たちは礼拝のたびに神様の祝福を受けます。主があなたを守り、導き、平安を与えるという宣言です。私たちにとっては大変意味があります。救いの根拠ともいえるものです。その同じ祝福が結婚式でも行なわれるのです。     教会に生涯たった一度、しかも親類、友人の結婚式のために出席しただけとしか本人は考えてないかもしれません。しかし、神様にとってはただ一度でも祝福を受けていることに意味があるのです。     私たちの教会は結婚式を行ないます。準備が大変かもしれません。様々な問題があるかもしれません。しかし、大切なことは出席する人の存在が神様に記憶されることにあります。そこに心を込めましょう。

「自分以外をみる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分以外をみる」   フィリピ 2:4   めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。  パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。   「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。   パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。

礼拝にどうぞ

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