2017年10月12日木曜日

『共に悲しむ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『共に悲しむ』

「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」
 
 指紋押捺拒否裁判を担当された弁護士さんの言葉です。一人の人の考えや生き方を変えようとする場合、闘争的になるのはどうしてでしょうか。強い者が正しいという考えがどこかにあるのでしょうか。
 
 校門に挟まれて亡くなった高校生の出来事に、胸が痛くなりました。また逆にそうせざるを得なかった教師にも胸が痛くなります。ニュ-スをみていたら数日後、校門の前で二人の大学生がビラを配りながら叫んでいました。「教師がそこまでして、校門を閉めなければならないような学校にしたのは、君たち生徒一人一人なんだ」と。私たちはどう考えますか。
 
 「人は責めても変わらない。共に悲しむことによって変る」私たちは責められても責められても、自分を変えようとはしません。しかしそこに共に胸の痛みを感じ、悲しむことがおこったとき人は変えられていくと思います。
 
  私たちが救われているのは、イエス様が一人一人と共に悲しんでくださるからではないでしょうか。