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11月, 2017の投稿を表示しています

『アンパンマンのアイス』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『アンパンマンのアイス』  長女が二才半の時でした。ものごとをどのくらい理解出来るのか不思議に思うことがあります。     ある日 のことでした。アイスクリ-ムが好きなので、その日は朝から「アンパンマンのアイス」と訴えていました。私は華美が風邪をひいていることだし、与えないことにしたのです。ところが諦めず何回も何回も「アンパンマンのアイス」が食べたいと言います。そのつど「ダメ~」の繰り返しでした。誰に似たのかガンコな長女はよる十時まで「アンパンマンのアイス」というのです。いいかげん頭にきて、「そんなに欲しかったら、自分で買いにいきなさい」というと、すんなり「は~い」といって家を出ていきました。どうせ外は雨が降っているし、すぐに泣いて帰ってくるだろうとこっそり影からみていますと、傘をとり、長靴を履いて暗いなかとぼとぼと外へ出ていってしまいました。しかも道路へでて右へいこうか左へいこうかとキョロキョロしています。その後ろ姿を見たとき、おこがましいですが神様の眼がすこしわかったのです。神様も私のことを親の眼で見ていて、手を差し伸べて下さるのだと。     それから私はコンビニに走ったのでした。アイスを買いに。

「種から育つ」

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  鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「種から育つ」 1ペトロ 1:23   あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。 ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。 ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。 ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

『創意工夫・忍耐・努力』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『創意工夫・忍耐・努力』  今年の西教区牧師退修会のテ-マは、「総合宣教方策」でした。簡単にいえば伝道の不振をどう建て直しするかということです。しかし具体的なことは何一つ出てきませんでした。そのような中で、ある引退が近い先生の言葉には迫力がありました。     その先生が言われるには、「引退するころになって伝道についてわかったことがある。伝道に必要なことは次の三つだと確信している。それは『創意工夫』『忍耐』『努力』である」。目標を決め、それについて創意工夫し、そのためには忍耐しつつ努力する。ある意味では簡単そうにみえますが、余程意志が強くなければ続かないことです。     私たちの教会も礼拝堂の席がまず五十席うまるように、『創意工夫・忍耐・努力』していきたいと思います。

「今日何を行う」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「今日何を行う」 1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。 伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。 パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。 ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。 パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

礼拝はどなたでも

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きままな休日・ジャーマンポテト

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これって好きです。 ドイツのビールに絶対合うと思います。 いやいや日本のビールにも合います。 じゃがいもとベーコンさらにチーズなんですから。

オルガンCD「ねがい」

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教会でお買い求めください!

『最高の贅沢』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『最高の贅沢』  最近疲れがたまってくると、礼拝堂へいくことが多くなりました。礼拝堂へ入りカセットを選ぶ。その日の気分でパイプオルガンにしたり、フル-トにしたり、リュ-トにしたりと楽しんでいます。バッハの曲を聞きながら、教会に住んで管理するというのは牧師の特別の恵みであり、またすぐに礼拝堂で祈ることができることは牧師だけの「最高の贅沢」だな~としみじみ思います。      ここ三ケ月あまり教会の扉を朝から夕まで開けておくことにしました。だれでも自由にお祈りくださいという意味もあります。また、教会はこの世に対して開かれた存在だということを示したいと思うからです。      いろいろと考えさせてくださる場所が礼拝堂であり、私たちの教会でもあります。いつでも自由に神様と出会ってください 。 

「信仰というよりも」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「信仰というよりも」 ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。 イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。 信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。 本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

『マルコを読む』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『マルコを読む』  教会の聖書研究会で、「マルコによる福音書」を学びはじめて一年がたとうとしています。といってもまだ三章に入ったばかりなので、この先何年かかるかわかりません。しかし一節一節に書かれていることを丁寧に読んでいくと、心が揺さぶられる思いがしてきます。     マルコがなぜ福音書を編集しなければならなかったのか。当時の人々はこの福音書をどう読んだのか。それを考えながら読んでいますと、いまの日本の状況とぴったりあうことに気がつかされるのです。     マルコが叫び続けたことはいったい何か。それが今の教会にも同じように語られていると思います。マルコが伝えたかったことは、「生のキリスト」だったと思います。ぬくもりが感じられるキリスト。私たちにとって生きたキリストだったといえるのです。      あなたにはキリストの肌のぬくもりが感じられますか。

「無一物」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「無一物」 2コリ  6:10  悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。 コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。 千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。 松平不昧公( 1751 ~ 1818 )所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。 無一物 とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。 パウロは「 無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生

教会でお待ちしています。

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気ままな休日・食べ過ぎ

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ちょっと調子にのって食べ過ぎてしました。 カレーだけ、うどんだけにすればいいのですが。 このお店は両方おしいのですよね~

いまの鹿児島教会

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鹿児島教会が成長していますよ! ますます聖なる空間になりました。

『感謝する』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『感謝する』  毎週木曜日は私にとって楽しい日となりました。なぜなら生協の日だからです。この日には前週に頼んでおいた美味しい品物が届くのです。けれど困ったこともしばしばあります。皆さんもあるでしょうか。お味噌が二週続けてきたり、ややもするとスパゲッティイが三キロきたり、お年寄り用オムツがきたりすることが。実は前週に頼むシステムになっているので、何を頼んだかわからなくなってしまうのです。一週間のうちに既にお味噌は頼んだのに、無くなりつつあるとあせってまた頼んでしまう。頼んだことを忘れてまた頼む。     こう考えてみると信仰生活も同じだと思ってしまいます。今日恵みを与えられていても、忘れてまた恵みを与えてと祈る。昨日守られていたことなどすっかり忘れて、今日こそ守ってくださいと神様に不平を述べている。こんなことはよくあります。しかしそれが悪いとはいえません。なぜなら神様の恵みを一々覚えられないのが私たちなのです。にもかかわらず恵みを与えたもう神様。私たちにできることは何かといえば感謝することです。

「み言葉の命を」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「み言葉の命を」 ペトロの手紙1  1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。 ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。 宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。 ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります

『風が好き』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『風が好き』  次女も守られて、少しづつ大きくなり、またよく笑うようにもなりました。先日も散歩に出かけたとき、急にゲラゲラ笑いだしました。どうしたのかと思いながら長女をみると同じようにゲラゲラ笑っていました。親は別におかしくないのになぜか二人だけがとても愉快そうでした。理由はなんと、風が吹いていたからです。どうも『風』が大好きなようです。     それで実験です。次女に息を吹きかけたら笑うか。その結果が面白いのです。フウッ-と息を吹きかけると、一度深く吸い込んで笑うのです。何度やっても同じです。神様が人を造られたのち、鼻から息を吹きかけて生きたものとされたということが聖書に書かれています。(創世記 2:7 )風は神様の息であり、聖霊でもあります。子供たちには神様の息がわかるのかもしれません。     神様が吹きかけてくださる聖霊の息を、妨げているのは私たち自身の不信仰かもしれません。風は私たちの周りでいつでも吹いているのです。

「先に」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「先に」   マタイ   14:22  イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。    NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。    イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。    今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。    イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ

どなたでも

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きままな休日・あずまそば

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1玉、2玉、3玉同じ値段 でもやっぱ3玉はいけないですね。 そばだからと油断しちゃいけない!

鹿児島教会ワーク

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『あたりまえのこと』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『あたりまえのこと』 「只眼横鼻直なるを知るのみ」     道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。     でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。横に眼が並んでいるのは、人間と猿類と猫科だけです。そのなかでの「あるがまま」というときなにかしら考えすぎてしまいます。しかし、そんなことを考えるのが迷いでしょう。     私たちは主にあって一つなるを知るのみ、でまいりましょう。イエス様のことを見つづけて、従ってまいりましょう。イエス様の足跡のみをみて。

「宗教改革記念日に」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「宗教改革記念日に」  ガラテヤ  5:1  この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。 ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。   10 月 31 日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の 16 世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。  ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架

『笑線』

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  クレヨン牧師のミニエッセイ 『笑線』  桂文珍著「日本の大学」~この国の若者はこんなんでっせ~という本を読み、大変ためになりました。そのなかで、人間には「涙線」があるが、その人の情報量を知るバロメ-タ-は「笑線」だということが書かれてありました。つまり、同じジョ-クで笑えるか、笑えないかということです。関西大学非常勤講師・桂文珍先生は次のようにいってます。     「この人と結婚しようかなと思う相手とは、メルヘンチックなものとか、涙を誘うものは出来るだけ観ないほうがいいよ。悲しい部分はみんな一緒。悲しいドラマを観て泣いたからといって、ああ、心の優しい、いい子やなあと思ったら、大きな間違いで、後で後悔せんならん。でも笑いは人によって個人差があるから、連れていくのやったら吉本にしなさい。私の落語を聞きなさい。そこで、同じところで同じ様に笑えて、『笑線』のウエ-ブが合う者同志だったら、結婚して幸せになれるよ」と。     パウロが言う「泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ」もまた、単純なことではなく、何か深いものを考えてしまいます。

「ありがとうを返す」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ありがとうを返す」 ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。  ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。  会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。  神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

お待ちしてます。

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礼拝堂が変わった!

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聖なる空間になります!

『弱さ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『弱さ』  少しは涼しくなりました。今年は本当に夏を感じた暑さのある季節でした。雨が少なく、庭に植えてある草木も元気がありませんでした。その暑さの中で、さつき・つつじが何本か枯れてしまいました。やはり根が地についていなかったのでしょう。枯れたさつきもつつじも、とても元気がいいものでした。花もよくつき、来年を楽しみにしていたのです。その中の何本かは生き残ってくれました。そして驚いたことには、残ったものは日頃からあまり太陽があたらない場所のものでした。建物の陰にあって、みるからに弱い感じのする木が生き残ったのです。     先日ある方と話しをしていて、「クリスチャンの弱さがなんだか悲しいですね」と言われました。「弱さ」といっても悪い意味ではありません。権力や力に対するときに、愛を語ると「弱い」と思われるかもしれません。しかしその場合の神にある「弱さ」は本当に人間的な「弱さ」でしょうか。十字架の上のイエス様は確かに「弱い」存在です。権力の前にはなすすべもありません。ありませんが、イエス様の十字架を見上げるとき「弱さ」だけでないものがみえてきます。

「たった一言で」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「たった一言で」 マタイ   8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。 イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。 ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。  百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。