「宗教改革記念日に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「宗教改革記念日に」

 ガラテヤ 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 1031日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。

 ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架があるのです。

 私たちは「ねばならない」にとらわれてしまいます。しかし、問題なのは「ねばならない」という義務にとらわれて、神様からの自由を見失ってしまっているということです。私たちはキリストを信じる信仰によって、とらわれから解放されています。「ねばならない」から行いがあるのではなく、神様の愛と自由をいただいているから「そうせずにはおれない」が愛と奉仕の原点です。そこに神様からいただく自由があります。

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