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1月, 2018の投稿を表示しています

「神のみ言葉は隠れない」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「神のみ言葉は隠れない」 マルコ  4 : 21  隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。 P.F. ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。 今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。 「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんですよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。 イエス様は「 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公になら

『知らないうちに体力が』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『知らないうちに体力が』  「足が動かない」という経験がありますか。 足の力が弱っていると感じてがっかりしました。  というのも金曜日に「開拓伝道委員会」が滋賀県で行なわれるので、新幹線を利用したときです。時間ぎりぎりになって駅についたので、改札から走って階段を駆け登りました。徳山駅はご存知のように、新幹線の改札に入ってもまた階段があるのです。改札を抜けたあたりで列車が入ってきました。これに乗らねば遅れると思い、階段を二段飛ばしで掛け上るつもりでした。ところが、十段目位上がったところで足が動かなくなったのです。気持は前へ行こうとしても、足がついてきません。ベルは鳴るし、やっとの思いで飛び乗ってみたものの、岩国までは「はあはあ」と息がしんどいやら、気分が悪いやらもう大変でした。  知らないうちに体力がなくなっていたのか、としみじみ感じました。私たちの信仰生活にも同じようなことがいえます。イエス様の御言葉を感動をもって聞いたのですが、知らず知らず忘れていたことがありませんか。体力が意識しないうちに衰えていくのと同じで、御言葉も意識して吸収しないと忘れられていくしかないのです。あらためて聖書のみ。

「確実な一歩を」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「確実な一歩を」 詩編 17:5 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。 禅の逸話に次のようなものがあります。ある高僧が弟子を連れて庭を歩いていました。風が吹いて落葉が一枚落ちてきました。その高僧は落葉を拾って袂(たもと)に入れました。弟子は「老僧、やめてください。落葉はのちほど、誰かに掃かせますから」とたしなめました。すると高僧は「馬鹿者!『のちほど』で庭が綺麗になるか。いま1枚拾えば、その分だけ庭が綺麗になったのだ」と弟子を叱りつけた。私たちは目の前に与えられている課題を「のちほど」「あとで」と考えることがあります。この考えを持つと、その仕事はできなくなってしまいます。目の前にあるものから、まず片付けていくことで仕事を完成することができます。この心がけが今の季節に大切なことです。 今日読みました詩篇は、裁判に臨む無実の人の祈りと理解されています。詩篇が書かれた時代は、夜の間に裁判が行われ、翌朝に判決が言い渡されていたようです。詩人は神様の正義が公平に行われるように祈っています。そして与えられた信仰によって、目の前の「一歩」を確実に進むことを望んでいます。神様にあって正しいとされる目の前の「一歩」を進むことを忘れてはいけないと訴えています。これも自分の心を神様の前で点検することでもあります。 「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。 アドベントの季節は、まず悔い改める一歩を踏み出す時です。詩編の作者は「 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と祈りました。 私たちに与えられたこの時期の働きも、後回しにせず目の前のことから確実におわらせていくことです。

礼拝はいかが

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パイプ乙願コンサート熊本

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きままな休日・いちき串木野まぐろ丼

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いちき串木野に途中下車 ここはマグロ漁船の本拠地 やっぱりマクロ食べなきゃですよね!

『自分を知るには子供をみよ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『自分を知るには子供をみよ』  自分を知るのに一番いい方法は、一番近い親族を見ることだと思います。私にとっては娘をみると自分が見えてきます。自分とそっくりなのだから。      あるとき長女が次女に言う言葉を聞いて赤面しました。「もういいかげんにしなさい」「そろそろたたくよ」「やめなさい」「なんどいえばわかるの」「おもちゃかってあげないよ」・・・。聞きながら禁止命令の多いことに驚きました。そしてそれが私が長女に言っている言葉と、まったく同じ言葉なのです。私が二才の娘にいう言葉を、十ケ月の娘に同じ様にいっているとは。そこで自分を反省し、改めて「子育て講演会」のビデオをみることになったのです。子供を通してその親がどんな人かを知ることができます。しかもそのことは聖書ではすでに語られていることなのです。イエス様は「私を通してでないと、父を見ることはできない」と言われています。イエス様をしっかり見て、何を語り、何をされたかで神様を知ることができるのです。神様を知ることとは、イエス様の御言葉をしっかり聞くことだといえます。

「悔改めは本気で」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「悔改めは本気で」 マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。 聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。 坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。  本気になると  世界が変わってくる  自分が変わってくる  変わってこなかったら  まだ本気になってない証拠だ  本気な恋  本気な仕事  ああ  人間一度  こいつを  つかまんことには  悔い改めとは本気になって方向を変えることだと思います。  聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐに

『まぜごはんとポテトサラダ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『まぜごはんとポテトサラダ』  熊本地震ですべてなくなった故郷・立野村へ帰ってきました。農家に牛を見にいったり、家の前に流れている小川でカニをとったり、阿蘇山を眺めながら昼寝をしたりと、懐かしさが込み上げてきました。  さてはじめて気づいたのですが、母の仮設で必ず母が作ってくれる食事が、「まぜごはんとポテトサラダ」に決まっている。兄に聞いても「そういえばそうだな」とのこと。母に聞くわけにいかず、私が「まぜごはんにポテトサラダ」が好きだと思っているかもしれない。それが母の得意料理かもしれない。どっちにしても母が作る料理には、母の手のぬくもりを感じてうれしいものです。      いつ食べても変わらない味と素朴さに、食べながら暖かさを感じます。自分が育てられた家や周囲にいてくれた人達が、自分の人間性を培っていくのに大切なように、信仰にも懐かしい思い出があります。その懐かしい思い出がいつのまにか、信頼という一つの糸で神様に結ばれる。      母の作る食事に、暖かさを感じるようになるまで生きてきたのだと思います。

「悔改めて待つ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「悔改めて待つ」 マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。 聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。 ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。 聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

教会にて待ってます!

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今年もやります!

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気ままな休日・豚天丼

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  ちょっと疲れがたまったな~ そうだこんな時は食べよう! がっついりいくぞ~で豚天丼です。

『教会の鐘』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『教会の鐘』    徳山教会の鐘を設置した時のことです。日曜日から順調に鳴り響いていました。毎日聞けるのは、牧師の家庭とそしてこの地域の方々です。私はなんて幸せなんだろうと一人喜びを噛み締めていました。      毎日聞いていますと、だんだん生活のリズムができてくるように思えます。時の確認ができる。正午だからもう鳴るかなとか、もうすぐ六時だなと時間を気にするようになりました。けじめができていいものです。しかもいいことを教えられました。それはミレ-の『晩鐘』です。あの絵は教会の鐘とともにお祈りしている夫婦の絵でした。そう考えたとき、あの鐘が鳴るときは立ち止まって『祈る』ことにしようと決心したのです。       鐘はたった四十秒しか鳴りません。しかし、その短い時間がとても尊い時間に変えられました。鐘の音とともに皆さんの無事を祈っています。安心して働き、与えられた時を有意義に過ごしてください。鐘は日に三回鳴ります。

「座ってみて」

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 鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「座ってみて」 ルカ  14 : 28  あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。 本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。 幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈

砂浜で赤ちゃんが

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クレヨン牧師のミニエッセイ 砂浜で赤ちゃんが  「虹の子サ-クル」の新年度がスタ-トしました。久し振りに海辺に出ていくと、太陽の輝き、風の心地よさ、砂の暖かさを感じました。      多くの子供たちが砂浜で遊んでいました。長女も外で遊べるのがうれしいらしく、すぐ裸足になり駆け回っていました。そして何を思ったのか突然、砂を掘りはじめたのです。必死になって掘っています。しかし掘れども掘れども砂ばかり。横でみていて私達大人も同じことやっているのだな。人生に何か宝でもあるだろうかと必死で砂を掘っているのかもしれないと考えていました。すると長女がいきなり叫びました。「赤ちゃんがでてきた」。ウソッ~と思って見てみると、砂の湿ったところに松の二葉があるではないですか。きっと松林から種が飛んで芽をだしたのでしょう。     人生の砂場で私たちが見出すのは何でしょうか。それは神様から与えられた命かもしれません。ある牧師が説教の中で、「宗教(信仰)の一番初めは感謝から始まる」と語っておられました。神様から与えられた命を見出すことができたら、私たちの人生は感謝から始められるでしょう。  

「聞くという奉仕」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聞くという奉仕」 ルカ  10 : 42  必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。 「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。 イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。 次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。 イエス様の前に立つ時の、思い

礼拝はいつでもオープンです

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きままな休日・宇土の甘酒饅頭

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これは私が一番好きな饅頭です。 宇土教会の前にお店があります。 このまんじゅうを食べるとほっこりします。 餡が素晴らしいです。

オルガンCDはいかが?

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引き際にロマン

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『引き際にロマン』  大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、石橋牧師語録を書いておられました。     「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」これから、伝道の真髄を学べる喜びが増してきました。

「上に立つ御言葉の権威」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「上に立つ御言葉の権威」 ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。   ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。 パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。   街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。  パウロは「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉

『花いちりん』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『花いちりん』  アンデルセン童話全集の、最後にでてくるものは何か御存知ですか。全集一五五番には、実は讃美歌の一節がでてくるのです。          どんなにえらい王さまが      どんなにきれいにきかざって      行列つくってあるいても      野はらに咲いてるいらくさの      花いちりんにはかなわない  神様がつくってくださったものは、そのままで輝く美しさをもっています。      花いちりんからでも神様の素晴らしさがみえてきます。私たちもまた、花いちりんからでも神様の栄光がみえる信仰をもちたいです。

「今日を生きること」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「今日を生きること」 マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。 本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。 「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。 イエス様は「 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。 今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直

礼拝でお待ちしています。

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鹿児島教会の2017年最終礼拝

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最後の礼拝はなんと12名でした。 感謝感激でした!

『礼儀』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『礼儀』  お菓子を食べていたら、煎餅袋の裏に『日本食の礼儀』というものが書いてありました。茶碗の持ち方や、お箸の置き方、目の置きどころなど詳しく書いてあるのです。私は食前・食中・食後の箸の置き方など初めて知りました。また箸の使い方の悪い例はたくさんあって驚きました。     お箸をなめるのは「ねぶり箸」、同じお菜を続けて食べる「移り箸」、なにを食べようかうろうろするのは「迷い箸」、遠くのお菜に差し出すのは「及び箸」、吸い物のお椀の中に実を探すのは「探り箸」、お料理を箸で突く「突き箸」、お茶碗の中で御飯をかためる「かため箸」。これはみんなやってはいけないことなのです。     あらためていわれると、この礼儀は作った方への感謝から出てきているように思えます。心を込めて作ってくださったものを、正しく感謝していただく。しかもおいしくいただくことが礼儀だと思います。

「単ではなく」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「単ではなく」 エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。 パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。 パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。

 『料理の基本』

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クレヨン牧師のミニエッセイ  『料理の基本』 「最後に砂糖で味を整えなければならない料理は、どこか基本が間違っている」という言葉をどこかで読みました。もうかなり前の話です。     ところが料理を少しづつ作るようになると、その意味がちょっとだけ分かってきました。料理をしながらわかったことは、『塩』が料理の基本ではないかな~ということです。生意気なようですが、『いい塩梅』というくらいですからまんざらウソでもないと本人は思っているのですが。最近の「料理の本」をみて気づいたことは、どうも基本からやり直そうという企画が多いことです。魚のさばき方は写真入で、野菜の切り方などは図解で説明してあります。玉葱など料理によって切り方を変えるなど初耳でした。つまり繊維にそって切ったほうがおいしくなる料理などあるのですね。     料理をしながら、神様が与えられている命を食べるという実感があります。神様の与えられた命であるならば、喜んで感謝してそのまま食べることが基本だと思うのです。信仰も最後に味を整えるのではなく、御言葉という味だけで勝負したいものです。 

新年も礼拝から!

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あけましておめでとうござます。 大江教会では11:00~新年礼拝です。 今年もよろしくお願いします。