投稿

2月, 2018の投稿を表示しています

「光を迎える」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「光を迎える」  ヨハネ  1:4-5  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。 中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。  ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。 クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第 22 番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が 270 度のときでだいたい 12 月 22 日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ 4 世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。 イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらしま

たくさんのオモチャ

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『たくさんのオモチャ』  ある小学生の作文に次のようなものがありました。     「ぼくはおかあさんが大好きだ。だから一生懸命勉強してよい学校にはいり、よい会社に勤めて、たくさんのお金をもうけて、おかあさんを一番上等な養老院にいれてあげたいと思っている」母親に対しての感謝の表現が、「上等な養老院」であるとすれば、何か恐ろしい気持がする反面、私たち親の方に欠陥があるのかもしれません。      我が家にもたくさんのオモチャが散乱しています。大部分は壊れているものです。しかしそのなかでも壊れないオモチャがあります。それは木で作られたもので、昔ながらのものです。カタカタ、積み木、木馬など。これにはまず電池を入れてとか、スイッチを入れてとか、教育上こんなに効果があるなどという説明はありません。しかし、単純なんだけれど子供に愛されているオモチャです。     「頭が良くなる」と説明されているプラスチックのものを選ぶか、手にもって暖かさのあるものを選ぶか親の自由です。小さな頃から暖かさを知っている子供は感謝のしるしに「上等な養老院」などと考えないでしょう。

「定められています」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉   「定められています」 ルカ  2:34  シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。  イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。  動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。  イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったので

ルーテル教会の牧師仲間です!

イメージ
ルーテル教会九州地域教師会メンバー この牧師たちで九州の宣教を担っています。 よろしくお願いします。

土曜日は礼拝の日

イメージ

休日クレヨン・山江の栗ようかん

イメージ
   九州自動車道の山江SAでみつけました。栗ようかん。    ここは栗の産地ですので、栗です。栗が入っているのではなく栗の羊羹です。    なかなか美味しいですよ。これを切らずにガブリついて食べました。    なんという幸せかな~~~~

『台風キャンプで』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『台風キャンプで』  台風のさなか「教会学校・親子キャンプ」が、離れ小島である佐合島で行なわれたことがあります。とてもいい経験になりました。とくに子供たちにとってもですが、私たちスタッフにとっても貴重な体験でした。なぜなら食料を二日分しか持っていかず、次の日に持ってきて貰おうなんて甘い考えでしたので、船が出ないということを聞いたときの驚きは隠せませんでした。     ただし幸いなことに、お米は十分ありました。たった一件の民家兼お店には、ソ-セ-ジと卵二十個、そしてしらたきが少々ありました。食事はこれでなんとかすることにし、あとは台風のなか貝掘りです。     私たちスタッフは「これで子供たちが食事に満足するかな」と心配でしたが、文句一つなく楽しんで食べてくれました。もしかすると、今の子供はいいものしか食べないというのは偏見かもしれません。     私たちの命、ほんとうは「二匹の魚と五つのパン」で十分なのかもしれません。

「約束を信じる」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「約束を信じる」 ルカ 1:45  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。 この時期になると、サンタクロースはいるかということが話題になります。クリスマスの 1 日で世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、 1 人の子供に要する時間は果てしなく瞬間にちかいという計算をした人もいます。つまり瞬間移動しているから人間の目には見えないというのです。私はサンタクロースがいるかいないかを議論してもしょうがないと思っています。目をつぶってサンタクロースを思い浮かべることができれば、それは存在するという教えの方がロマンチックでいいと思います。つまりその存在を信じる者だけに存在するものがあるのです。  イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。 教会から30年も離れておられた信徒の葬儀をさせていただいたことがあります。生前にお会いすることはできませんでした。昭和33年に教会で、目が不自由だった石松量蔵牧師より洗礼を受け、神戸ルーテル聖書学校で学び、実家の仕事をされていました。その後何かの事情で教会から離れ、30年後に「葬儀は教会で」という本人の願いで、再び教会へ帰って来られました。ルーテルアワーで教会を知り、石松牧師から「信じる者、愛する者は幸せである」と説かれ、兄は少し意地悪な質問をされました。「あなたは目が見えないのに幸せなのですか」と。すると石松牧師は「私は目が見えないおかげで外見に惑わされる事がありません。私はお互いの心と心で相手を見る事ができます」と答えられたそうです。その言葉に深い感銘を受け、聖書を学び洗礼を受けられたというのです。葬儀のとき、兄の聖書をみせていただきました。赤線がびっしり引いてあり、兄をとらえた聖書の言葉がわりました。聖書には三つの言葉が記されてありました。「謙遜」「わたしたちは、すべてにまさって、神を恐れ、神を愛し、

『三個めの伝道』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『三個めの伝道』  「宅急便」といえば今、とても便利なものです。しかしこの会社を初めて考えた人のアイデアと苦労は大変なものだったと思います。     先日ある本で「クロネコ宅急便」の歴史を読みました。そのとき会社を営業して第一日目に配達した荷物はいくつだったか初めて知りました。皆さんはいくつかわかりますか。実は二個だったそうです。この二個という数字に、当時の方はどう思われたでしょうか。これはいけると考えたか、やっぱり商売にならないと考えたか。もしそこでやめていたらいまの普及などなかったでしょう。     ル-テル教会も宣教百十年を迎えます。しかし明るい未来が開けているわけではありません。教会の会員数は二十年前とさして変わらず、経済は圧迫を受けています。そういう意味では宣教百年は、営業初日の宅急便ににています。二個しかこない夕暮れです。この状態を嘆くのか、いや未来への希望を見出すのか。三個めという伝道が今なのかもしれません。神様にとって百年は一日でもないかな。 

「つながってここにいる」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「つながってここにいる」 ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。  ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。 ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。   世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは、キリストにつながる

熊本ルーテル学院でオルガンコンサート

イメージ

今日が礼拝です!

イメージ

休日クレヨン・母のポテトサラダ

イメージ
仮設で暮らしている母がポテサラをご馳走してくれました。 母のポテサラは母だけが出せる味。 いつも美味しいな~と思います。 まだまだ仮設生活は長引きそうです。 一日も早く家でポテサラが食べられますように。

『わらって』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『わらって』   ラジオからこんな歌が流れてきました。誰の歌か教えてください。    微笑って いちばん似合うよ  素直さ取り戻したあとほら  昨日よりずっと素敵よ  涙がくれた優しさで    マルコによる福音書を読みながら、宣 教とは何かを考えています。私たちのイエス様は「教勢の拡張」というような意味での宣教活動は行なっていません。ですから、宣教の成功や失敗などと言える活動ではなかったはずです。イエス様に従いつつ私たちは何をするのでしょうか。悲しむものと共にいていっしょに泣く。生きる勇気をいただく。涙がくれた優しさを知っている人は微笑むことをしっている。これだけでも宣教になります。  

「共にいることの介入」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「共にいることの介入」 マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。 本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。 その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになって

『禁止と命令』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『禁止と命令』  青年伝道協議会に出席しました。現代の青年が一番嫌うのは、「禁止」と「命令」みたいです。どうして「禁止」と「命令」が嫌いなのか。それは生れてからずっと、「禁止」と「命令」のなかで育てられたからです。私たちの子育ての多くは、「~しなさい」「だめ」「いけません」の繰り返しです。     教会におりますと、となりの小学校の放送が聞こえてきます。今日もまたいつもと同じ様に、「掃除の時間です。黙って、静かに、一生懸命に掃除をしましょう」と聞こえてきます。ある時など「〇年生、話し声が聞こえる。静かにやりなさい」と聞こえてきました。掃除は楽しくしてはいけないのでしょうか。     宣教百年の青年大会も、彼らには「命令」に聞こえるのでしょうか。「せっかくの機会だから何かやりませんか?」という問い掛けも、「やれっていってることじゃん」として受け取られてしまいます。それでは自分たちでやるのか。やりたくないのか。はっきりしません。これは私たちが子供たちを「禁止」と「命令」でがんじがらめにしてきたからではないでしょうか。教会のなかでさえも。神様の愛は「命令」と「禁止」だけではないのですが。

「旅は神様がすべて用意されている」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「旅は神様がすべて用意されている」 マタイ   10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。 クリスマスの出来事の中に「旅」というテーマがいくつか散りばめられています。一つは受胎告知を受けたマリアは親類のエリサベトを訪問する旅があります。また人口調査のためにベツレヘムへの旅。そしてエジプトへ逃避の旅です。この3つの旅の中にも「神様が共におられる」ということが繰り返し語られます。私たちの人生は旅にたとえられます。自分から進んでいく旅もありますが、人生の旅は困難な旅の方が多いかもしれません。そのようなときにこそ「神様が共におられる」ことを実感することが旅の目的かもしれないと思います。 イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。しかも送り出す方向も指示しておられます。 インドの笑い話に次のようなものがあります。  旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。  「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」  「そうだな、三・四十分というところだな」  「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」  「いいとも。乗りなされ」  それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。  「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」  「そうだな、一時間くらいかな」  旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。  「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」  進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。 イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけだと言えます。そして方向を見据えるということです。与えられた時間を神様のために用い

納骨堂が改装されました。

イメージ
懸案であった納骨堂の整備! 教会員の皆さんで整備しました。 とても落ち着きます

鹿児島教会礼拝20名!

イメージ
久しぶりの20名礼拝!感謝!

鹿児島礼拝は土曜日

イメージ

明日はワークです!

イメージ

『はたして・・・と思う』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『はたして・・・と思う』  マルコによる福音書を聖書研究会で読んでいますと、「はたして」と思うことがたくさんあります。今回も「はたしてイエス様は教会を造るのをよしとされたのだろうか」と考えさせられました。     マルコ福音書を読みますと、「民衆」「弟子たち」「律法学者」と三者の関係とイエス様という設定になっています。そしてイエス様がいつもおられるところは「民衆」のただなかです。決して「弟子たち」でもまた「学者」でもないのです。実は教会に入りたくても入れないのが「民衆」なのです。マルコの描く歴史のイエス様は、教会という枠組のなかにはおられず、むしろ教会からでて、苦しい人、悲しんでいる人のところへ進んでいかれるというのです。     イエス様が望まれた教会は、造るのではなく、存在するもの、どこにでもあるのもの、壁のないものかもしれません。主が教会なのですから。

「みえている案内人」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「みえている案内人」 マタイ   23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。 イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。 山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。 イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと

『自分を知る』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『自分を知る』  柳井教会からの帰り道でのことでした。光市を通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。まるで、ドン・キホ-テのようでした。     それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これを私たちは見過ごしていないでしょうか。私はいったい誰なんだろう。この問いは多くの方が問いとしてもってきました。しかし結論をだすのは自分自身しかありません。      イエス様はつねに神様との関係において誰かをのべられました。

「それはただの石かも」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「 それはただの石かも 」 ルカ   12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。  ある教会のバザーに、黒い丸いものが出品されました。しかし、それが何であるか誰もわかりませんでした。みんなで、こうじゃないか、ああじゃないかと意見をのべていました。ある人は置物だといい、ある人は何かの蓋でないかと。すると一人の子供がやってきて、その黒いものを取り上げ、「黒い石だ」といったのです。あるがままにみていると、まさしくそれは石でした。ただし何に使うかはいまでもわかりません。バザーって何が出てくるかわからいものです。  イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。わたしたちは見分ける目を持たねばならないのですが、それが一番難しいといえます。イエス様のみ言葉を基準にしなければできないことです。 道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。 よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本には以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を

毎週土曜日です

イメージ

聖なる空間プロジェクト2018

イメージ

きままな休日・てんぷら盛り合わせ

イメージ
いや~いつ食べてもてんぷらはOK こんなに美味しいのがあるんだね~ といつも思います。

『椅子ならべ』

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 『椅子ならべ』  「教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて六年がたちます。まだ神学生だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて五年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。      教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。やっとそのことに気づきました。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。皆さんが日曜礼拝から帰られたあと、きちんと並んだ椅子に座り祈ります。静けさとともに、牧師だけが味わう喜びがあるのです。